以前の投稿「大阪にはなぜ公営競技場が少ないのか」で少し触れた住之江公園内にかつてあった住之江競輪場ですが、その面影を求めてサイクリングいってきました。

suminoe park

大阪市の中心部から新なにわ筋を10kmほど南進すると、自然と大阪湾側に大通りは寄れ、住之江公園と競艇場が見えてきます。地下鉄ならば四つ橋線の終着駅なので、非常に分かりやすい場所に所在しています。住之江公園駅はニュートラムの乗換駅として何度か利用したことはありましたが、公園に来たのは初めてです。住之江区の最大面積の公園で、緑地面積が少ない大阪市においては貴重な空間となっています。

 

suminokouen

 

競輪ブームの火付け役となった 「住之江競輪場」

住之江競輪場は1948年の自転車競走法成立を受け、日本初の競輪開催を目指し大阪府が着工しますが、小倉競輪場に先を越され1ヶ月遅れの48年12月に日本で2番目の競輪場として開場、日本で初めての連勝複式車券の販売実施など注目を浴び、驚異的な人気となり、その成果を見て全国各地で競うように競輪場が短日月のうちに建設されるようになりました。

1958年発行の「大阪競輪史」によると、住之江競輪場は敷地総面積13000坪、コンクリート舗装された500m走路と1200席の観覧席、2ヶ所の投票場が設けられ、収容人員20000名、総工費は1885万円だそうです。

 

suminoe keirin  suminoe bank

 

| 競輪の存廃議論のきっかけとなった「住之江競輪 八百長騒ぎ」

華々しい成果を納めた府営競輪も八百長騒ぎが相次ぎ、49年5月には大きな暴動騒ぎが発生、レース内容に不満もった観衆の一部が走路内に乱入しやり直しや払い戻しを要求、さらには関係者を暴行し、投票所に油をかけ放火をしました。脅迫を受けた執務委員は身の危険を感じ不的中車券を買戻しをすることを発表しその場を収めましたが、翌日に前言を撤回するなど事態が混乱、施設も騒擾による破損で三ヶ月間の休止となります。

その後もお隣の兵庫県の鳴尾競輪場でも同じような暴動騒ぎが起こり、遂には競輪の存廃が国会で議論される事態となってしまいます。

惨事を重く見た大阪府知事が55年に府下の公営競技場の廃止の意向を示し、64年に12年間という短い期間で幕を閉じます。

 

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公園で休憩をしていた地元のご老人に話を伺うと、事件はおろか公園内に競輪場があったことすら初耳で驚いた様子でした。普通なら園内に歴史を記す石碑やモニュメントがあってもいいものなのですが、今ではちょっと考えられないような物騒な幕切れを好く思っていなかったのか、競輪場の名残を偲ぶものは何もありませんでした。

古い航空写真で見ると野球場の外野側に施設はあったようですが、園内にあった野球場は比較的新しく最近に造り直された感じがします。球場のレイアウトが当時のままだとすると南側にある広場に施設があったということになります。

 

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競輪と競艇が共存した住之江公園

また、新なにわ筋を挟んだ公園の東側には府下唯一のボートレース場があります。全国屈指の競艇施設として知られ「ボートレースの聖地」とされるほどファンからの支持されています。先ほどの休憩中のご老人もボートの大ファンで、嬉しそうに自身のギャンブル歴や競艇の歴史を語ってくれました。

 

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ニュートラムを借景にした施設は近未来的で整備が非常に行き届いていて、聖地化されるのも頷けます。先月に行った奈良競輪場の惨状を見た後にこの施設を見ると、同じ公営競技場なのにここまで違うのかと複雑な気持ちになります。

 

suminoe boatrace

住之江競艇場は1956年に狭山池で開催されていた競走を引き継ぐ形で開場、主催は箕面市で大阪市には恩恵がほとんどありません。このような収益体系になっている理由は競艇の歴史的経緯があり、競艇の父・笹川良一が深く関係しています。

 

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笹川は三島郡豊川村出身、今でいう箕面市の南東部の生まれ。裕福な造酒屋の家で、英国製自転車「ラージ号」を三島郡で初めて入手し登録したのも、笹川の父・鶴吉だったそうです。

公営競技の歴史をたどると競馬(地方競馬)・競輪の開催に遅れて、1951年にモーターボート競走法が定められています。競輪発足時の1948年、戦時中に代議士だった笹川は戦犯として巣鴨に収監されていて、東京裁判の判決を待っていました。同じように見える公営競技も戦後間もないこの激動の数年間が、双方の在り方を大きく変え、後の発展に大きな違いをもたらします。

 

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GHQに間接統治され、初の日本国憲法による選挙により誕生したのは社会党政権の片山内閣でした。GHQは敗戦後の日本が再び強国になるのを恐れ中央集権的な組織ではなく地方分権を進めます。競輪や競馬も地方ごとで開催するように法整備され国営競馬は廃止し、新たに「競馬法」と「自転車競走法」が制定されました。

日本と対峙していた連合国軍(米・中・ソ・仏・英)はそれぞれ異なった政治思想があり、ポツダム宣言以後、世界情勢は「枢軸(帝国主義) vs 連合」の構図から「西側 vs 社会主義」へと変質化します。1949年には中華人民共和国が誕生、50年には東西の代理戦争である朝鮮戦争が勃発します。このような状況下でGHQは、日本を共産主義の防波堤として傀儡化した方が都合がいいと考えを変えるのです。その結果、死刑を覚悟で豊川村に墓まで立て志願して収監された笹川は不起訴となり釈放されます。

この時に釈放されたメンバーを中心に日本はアメリカと協調し、敗戦で焦土化した日本に奇跡的な成長をもたらします。

後に総理大臣となる岸信介、読売グループ総帥正力松太郎、ロッキード事件の黒幕でフィクサーとして悪名高い児玉誉士夫、そして笹川です。日本は1951年にサンフランシスコ平和条約にて主権を回復し、再び中央集権的な体制へと舵を切り、笹川は競艇の中央組織である振興会を設立、競艇は競輪を抜き去り公営競技の王者となり、日本最大の財団へと成長をとげます。

競馬も54年に中央競馬設立され、従来の地方競馬場と合わせ現行の体制が成立、発展していきます。

【FILE②】では、長居公園にあった(地方)競馬場「大阪競馬場」と「大阪中央競輪場」の紹介をしたいと思います。

 

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