(前回の投稿の続き)

法円坂交差点の南西角には、「大阪医療センター」という国立の大病院があります。その敷地には松下幸之助などによって建造された大村益次郎の大きな石碑が鎮座しています。益次郎は幕末~明治期の政治家で、近代化する日本の富国強兵のため大阪に陸軍の中枢を置き、事実上の指導者となります。しかしそれが災いし、1868年(明治2)京都にて襲撃され大傷を負い44歳という若さで絶命します。益次郎の死後も大阪は大阪城周辺を中心に軍都として栄え、1877年(明治10)の西南戦争では全国から多くの兵士が集められました。

 

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大阪医療センターの南東角にある「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」

 

西南戦争は九州で勃発した日本最後の大規模内戦で、西郷隆盛率いる士族の反乱を制圧するため多くの犠牲者が発生、難波宮は臨時の野戦病院として使用され、病院で亡くなった戦死者を埋葬する墓地が必要となりました。そこで1kmほど南側の真田山に全国初の国立墓地が設置され、以後も日清・日露戦争などの戦没者を埋葬し国内最大規模の兵隊墓地となりました。

墓地の入り口には鉄製の門があり閉ざされていますが、くぐって入れるようになっていて、24時間誰でも墓参りができます。私が初めてこの墓地を知ったのは10年程前で、そのような歴史的経緯は一切知らずにたまたま訪れ、方錐形の風化した墓碑が並ぶ不思議な光景に驚き、関心を持っていました。

 

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墓石が並ぶ「 旧真田山陸軍墓地」

 

敷地内には納骨堂と5000基以上の墓碑があり、明治期の戦死者が中心となっています。靖国神社との関係で第二次世界大戦の被葬者が少なく、戦後は忘れ去れてた存在となっていました。

 

<真田山陸軍 戦時別の墓碑数>
西南戦争 767基
日清戦争 1337基
乙未戦争 370基
日露戦争 413基
第一次世界大戦 20基
満州事変 25基
日中~大東亜戦争 2基

 

霊園施設の管理も国と自治体が押しつけ合い全く行き届いておらず、同じ天王寺区にある四天王寺の官長が中心となり設立された「大阪靖国霊場維持会」と地元町会の献身的な保護活動でなんとか維持をしていましたが、戦後70年以上の歳月を経て、墓石や施設などの傷みは大きく活動も厳しい状況だったようです。

2016年にNHKの大河ドラマ「真田丸」が放送されると、真田幸村のゆかりの古戦場として真田山は注目を集め、地元の商店組合や墓地に隣接する「三光神社」などではPR活動をしましたが、墓地を再整備する大きな動きはありませんでした。

 

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墓地に隣接する三光神社 大坂の陣「真田丸」推定地とされている

 

風向きが変わったのは2018年5月の橋下徹氏の訪問です。ご存じの通り橋下氏は2008~11年に大阪府知事、11~15年は大阪市長として政治活動をしていました。任期中は同霊園に訪問したり特別予算を組みことはありませんでしたが、引退後に政治コメンテーターとして精力的に活動、国会議員の靖国神社参拝の姿勢に対して自身の信念を強く表明するのに加え、同霊園の悲惨な状況の改善の要求を方々で展開しました。

橋下氏の要望に応え、2018年8月に日本維新の会が菅義偉官房長官(当時)に軍用墓地の管理の在り方について要望を提出、吉村洋文市長(当時)も会見にて安倍晋三首相(当時)に対して真田山墓地の管理修復を要求「国がやらなければ、大阪市として対応したい」と強い態度で焚きつけました。政府は翌年1月、全国44カ所ある旧軍用墓地について、年間300万円程度だった補修費を5年間で5億円程度に増額する予算を編成、地元自治体と補修計画を協議するなど対応を取り、現在は一部が工事作業中となっています。

 

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▲ 風化によりダメージがある墓石 (2015年筆者撮影)

 

 

靖国神社は神道系の神社ですが、この真田山は墓地です。それぞれの役割も異なっっていて、霊園敷地内には個人の墓碑以外に、5基の合葬碑、そして4万3000人以上の遺骨や遺髪を納めた木造の納骨堂があります。被葬者は、病死者や脱走兵、自殺者、外国人も数名含まれています。感染予防のため火葬された者もいれば、軍靴や帽子着用の正装で土葬で眠っている兵士もいます。明治期の戦没者が主となっているため、大東亜戦争後の東京裁判による「A級戦犯」はひとりもいません。訪問日は最後の大阪空襲があった8月14日でしたが参拝者の姿はなく、セミが鳴き散らしていました。おそらく大阪市内で最も三密を回避できる場所でしょう。

 

 

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▲ フェンスで囲われた木造の納骨堂

 

橋下氏は自身のツイッターで「霊園の国有化」と「首相・天皇陛下の参拝」を提案しています。任期中に何もしなかった橋下氏が陛下に進言するのはどこか腑に落ちないような気がしますが、当時は大阪の財政状況が悪く緊縮体制で、2021年11月のABEMA.TV「NewsBar橋下」で「抜かっていて、(墓地の存在を)知らなかった」と手落ちを認める発言をしています。

 

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▲ 将校の墓碑  墓碑の大きさは階級ではなく遺族の財力によるもの

 

私は自宅マンションが近いため初訪問からおそらく20回近く訪れていますが、霊園は本堂やモニュメントのようなものがないため、どこを向いて拝めばいいのか分からず、哀悼の意を儀礼化しにくいように感じます。(大きな将校の墓碑もありますが、はずかしながら不勉強で誰一人としてどなた分かりません…)
靖国神社に参拝したこのがある方はご存じかもしれませんが、参道には立派な大村益次郎の銅像があります。個人的は考えなのですが、医療センターの大村益次郎の石碑をこの霊園に移設してはどうでしょうか。明治期の人物の石碑が1000年以上時代が違う難波宮の交差点に鎮座している場違い感もありますし、共に戦った一兵卒と同じように合祀されることを本人も望んでいるような気がします。ちなみに益次郎は襲撃後に大阪に運ばれ真田山近くの仮病院で絶命しています。現在の位置に石碑があると、大阪医療センターで亡くなったような誤解が生まれるように思います。

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