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日本を牛耳る「ペガサスクラブ」と千林商店街の関係

令和になりエネルギー価格の高騰や円安の進行などで生活用品や食品などの値上げが相次いでいます。家計が圧迫の影響を何とかするため、日本一安いとされている激安商店街の旭区「千林商商店街」に自転車で行ってきました。

 

 

サイクリングの帰り、淀川南岸の「豊里大橋」辺りを南へ行くとすぐ、大阪でも屈指の商店街「千林商店街」にたどり着きます。商店街は明るくアーケードがかかり活気にあふれています。たこ焼き8個200円、帽子どれでも1000円、コロッケ1個65円、自転車パンク修理500円~と、他所の半値から3分の1ほどの衝撃プライスの店々が軒を連ねています。

 

 

商店街はおよそ100年の歴史があり、長さは660m、鉄道アクセスもよく大阪メトロ「千林大宮」と京阪「千林」を中心にタコ足状に商店街が広がっています。10~20時までは自転車走行禁止となっているため、駐輪場に自転車を止めて歩きます。

自転車産業振興会が2021年に実施した自転車の使用用途調査では、関西人の59.0%が「買い物」に自転車を使用しているされ、全国平均の53.1%を大きく上回っています。その要因のひとつとして、千林商店街のような自転車と親和性の高い商店街が現役バリバリで残っているという地域性があるように思います。

 

 

 

京阪の駅の前には「オーエスドラッグ」という薬局があり、ここにはかつてダイエーの1号店がありました。千林商店街が激安化したのは、ダイエーをはじめニチイ、長崎屋、イズミヤといった小売業各社が競合し、安さを競い合ったという経緯があります。

ダイエーは1957年に中内功によって開店、開業時はわずか16坪の薬局でした。3年後の60年からは読売新聞で経済記事を担当していた渥美俊一をメンターに業績を拡大しました。渥美はセルフサービスや大量仕入れ、低価格販売など米国型チェーンストアを研究、コンサルタント機関「ペガサスクラブ」を主宰しました。

クラブ発足時のメンバーはわずか12企業、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊や岡田屋の岡田卓也はじめマイカル・ユニー・イズミヤといった企業で1~9店舗の企業ばかりでしたが、クラブからは次々に100億円企業が誕生、現在は小売りだけでなくサービス業や外食店など拡大し400企業以上が加盟する巨大集団となり、日本の流通業に革命をもたらしました。

 

 

<ペガサスクラブ発足時の参加企業>
①ダイエー
②サンコー
③イトーヨーカ堂
④紅丸商事(現・ヨークベニマル)
⑤ニチイ(セルフハトヤ・赤のれん等)→マイカル
⑥岡田屋
⑦フタギ
⑧扇屋本店
⑨シロ
⑩いづみや
⑪ほていや
⑫西川屋
⑬コマストアー

 

吉野家・無印良品・日本マクドナルド・ファミリーマート・ライフ・ニトリ・西友など上場する有名小売店や外食店の多くは同クラブに所属しており、日本に住んでいる限りこれらの企業を利用せずに日常生活を送ることはもはや難しくなっています。渥美の米国型のチェーンストアの研究がなければ現在の消費社会の実現は遅れ、安くておいしい牛丼を食べることができなかったかもしれません。

 

このような渥美の米国型経営への心酔は東京大学に在学時に培われました。在学中の1949年に中華人民共和国が建国され、日本国内で共産主義運動が活発となり東大でも思想の対立が顕在化していました。渥美のひとつ上の学年に渡邉恒雄という先輩が在籍、渡邊は日本共産党の党員でしたが思想の違いから党を除名となり、マルクス主義に異議を唱え「人間の発展と主体性の確立」を目指した新しい社会主義派閥「東大新人会」を結成しました。

 

<東大新人会の主なメンバー>
・渡邉恒雄  読売新聞主筆
・渥美俊一  ペガサスクラブ主宰
・藤田田  日本マクドナルド・日本トイザらス創業者
・高丘季昭  西友・ファミリーマート会長
・氏家齋一郎 日本テレビ会長
・堤清二 セゾングループ代表

 

 

新人会は合理的な社会構造と自由主義の梁山泊となり、東大内で共感され瞬く間に会員は100人を超え、渥美は同学年の藤田田(ふじた・でん)と共に入会、渡邊に誘われ読売新聞に入社し経済記事を担当、新人会時代の人脈を生かしペガサスクラブを発展させました。

 

「中内さんは爆発的な野生と鋭敏な感性、たくましい実行力を持ち、万人を魅了する人間的魅力がはち切れるばかりの経営者でした。しかし、そのカリスマ性が、逆風時には弱点になりました。軌道逸脱があっても誰も真っ向から反対できなかったからです。」

 

渥美と中内はスーパーマーケットや郊外型ショッピングセンターなど画期的な業態を展開、チェーンストアのフォーマットを確立し、小売業売上高首位の帝国を築き上げ、自転車も客寄せの目玉商品として原価以下で廉売され、既存の自転車店を駆逐していきました。

全国で自転車小売チェーン「サイクルベースあさひ」を運営する株式会社あさひの下田進代表(当時)は、千林のダイエーに足繫く通い詰め、自身の商売のヒントとしました。あさひの社名は千林商店街のある旭区の「あさひ」に由来しています。

 

 

 

経営学者で日本研究家のピーター・ドラッカーは戦後日本の急速な発展の第一の要因に「資本主義の選択」を挙げています。渡邉や渥美、中内といった偉人がいなければ、現在ほど日本は経済発展をとげていなかったかもしれません。渥美は2010年に他界してしまいましたが、多くの研究書籍を残しノウハウを伝道してきました。自転車の販売台数が2004年をピークに減少に転じていますが、渥美が残した英知を自転車業界が生かすことができれば、硬直した市場を好転させることができるかもしれません。

 

 

それにしても、ペガサスクラブの圧倒的なマーケティング力にも怯まず、それ以上の存在感をしめしている千林商店街の個人店は本当にすごいですね。

競輪場に泊まれる玉野競輪「HOTEL 10」

(前回投稿の続き)

玉野競輪場「HOTEL 10」は世界初の競輪場に泊まれるホテルです。

 

 

昨年開業したこのホテルはスタンドの一部を建て替えた新しい施設で、客室から瀬戸内海が望め競走の開催日はベランダから熱い戦いを観ることができます。ホテルの運営は食堂「FORQ」と同様に株式会社MIXI傘下「チャリロト」が受託、解体前の廃材をおしゃれに再活用した内装になっています。

 

 

8階建ての施設の客室は100室ほどあり、公式サイトから予約をして宿泊しました。ハイシーズンの夏休み中でしたが朝食付で8000円台と地域最安値、直島で宿泊するよりかなり安く泊まれるのではないでしょうか。競輪場東側には海岸公園がありますが、個人的には対岸の直島のビーチ(夏季無料シャワーあり)の方がおすすめです。どちらにしても、ほとんど海水浴客はいない、プライベートビーチ状態です。

 

 

客室は第1コーナーを眼下に見ろす位置となり、おそらく声援も選手に届いていると思います。宿泊部屋はビジネスホテルのような感じでしたが開放感がありベランダで座って景色を眺めボーっっとしているだけで気持ちよくなります。デラックス・スイート部屋も格安料金なので、空室があるならそちらがおススメです。

 

 

部屋にはテレビモニターが設置され、競輪の中継も見ることができます。館内着はポロシャツで、あとは普通のビジネスホテルと同じような感じでした。注意点としては、競輪開催日は大浴場が使用できないので、部屋のシャワーのみとなります。

 

 

ゲームコーナーやライブラリーといった付属施設はありませんが、廊下の壁面がギャラリーとなっていてアート作品が飾られています。ロビー横には売店があり、館内着のポロシャツやセンスのよい雑貨類が購入することができます。

 

 

チェックインの時に領収書を出せば、宇野駅からのタクシー代を1000円まで返金してもらえるようです。また、宇野駅 – 競輪場 – HOTEL10を走るジャンボタクシーも利用ができます。

 

 

近年、競輪はMIXIだけでなくソフトバンク、楽天、サーバーエージェントといったIT企業が担い手となっています。公営競技はインターネット投票が解禁となり、少なくとも全体で600万人が参加しているそうです。このような状況で売上げはV字回復していますが、競輪場の入場者数は減少し続けているようです。玉野競輪場の一連の取り組みは成功事例として、各主催自治体のロールモデルとなるように思います。

玉野競輪場の食堂「FORQ」

競輪場によく行く方は場内の食堂というと、うどんやどんぶりのような学食のようなところをイメージされるのではないでしょうか。老朽している施設では戦後から変わらないバラック小屋で、ギャンブル飯といえば低価格で昔ながらのB級グルメが相場となっています。

(前回の続き)

玉野競輪場の食堂「FORQ」はこれまでの競輪場のイメージを覆すレベル違いのレストランとなっています。

 

 

レストランはバンクを眼下に望むホームストレッチ側の2階にあり、競走の開催されていない日でも営業しています。宇野駅から少し離れているため利用者はそれほど多くなく広々としたおしゃれな店内で、バンク側が一面ガラス張りで瀬戸内海を借景にレースを見ることができます。

 

 

座席はテーブルとカウンターがあり、モニターでレース中継を見ながら食事をとることができ、同じフロアに車券売り場もあります。オーダーをするとフードコート用の呼び出しベルが渡され、着席して待っていると他に客はいなかったため、注文品を持ってきてくれました。

 

 

 

岡山の地元野菜や近海で獲れた魚介類などB級どころか「S級S飯」の素材を生かしたメニュー、クラフトビールやレモンサワーなど女子会やコンパにもおススメです。値段もチェーン店の居酒屋くらいで、割と料理の量もガッツリ目です。宇野港周辺には数店舗飲食店がありましたが、こんな海を見ながらゆったりできる空間は他にあるのでしょうか。

 

 

メニューも豊富、ディナーは、野菜グラタン¥1300、森林鶏(ってなんや?)のフライドチキン¥880、フィシュ&チップス¥1000といった感じのスパイスの効いた洋食で、競輪場のグルメの王道のモツ煮込みとか焼きそばとかはちょっとなさそうです。

 

 

夜は9:30ラストオーダー、行き交う船や地元選手がバンクで練習している光景をぼんやり眺めながら夕食を食べることができます。ランチ・カフェもこだわりのメニューでドリンクは飲んだことない複雑な味のジュース、コップ1杯の中に密度の違う刺激的なフレーバーが交錯し濃淡あるまさにケイリンのように予想の難しい味でした。

 

 

卓球台もありレースの合間の時間つぶしをすることできます。無料ですが、混みあってるときはテーブルとして使用されているかもしれません。

 

 

この食堂はランチ・カフェ・ディナーと宿泊者限定のモーニングがあります。

宿泊者?!

競輪場に宿泊??

玉野競輪場はホテルが併設されていて泊まることができるのです。

 

朝食付きで1泊8000円代と地域最安値「HOTEL10」に泊まってきました

(次回につづく)

リゾート&アート「玉野競輪場」の温故知新

岡山県玉野市の「玉野競輪場」に行ってきました。

 

 

玉野競輪場は1950年に開設された岡山県下唯一の競輪場で、玉野市が競走を主催しています。玉野市は人口およそ5万人、1988年に瀬戸大橋が開通するまでは連絡船が往来し造船業も盛んな港湾都市でしたが、現在では市の歳入のおよそ3割を競輪事業会計に依存しています。対岸の四国側には高松市営「高松競輪場」があり、宇野港を経由しアートで世界的な脚光を浴びる香川県の直島に行くことができ、観光収入が新たな収益源となっている港町です。

 

 

競輪場は宇野港から徒歩15分ほど離れた海沿いに位置します。JR宇野駅から送迎バスも出ているようですが、この日は最高気温35度でバスも待てないほどの灼熱地獄だったのでタクシーで直行、10分もしないうちに施設が見え、外周をぐるっと廻って料金1000円でした。

 

 

バンクは一周400mの屋外型で、ちょうど台風が接近していて、強い海風が流れ込んでいました。入場料は無料、ナイター設備がありガールズケイリンも開催されています。2022年にスタンドが改修され、空調の効いた海を望む最高のロケーションからレースを観覧でき、本場開催日のこの日はファンでほとんど埋まっていました。

 

 

 

「あか、がんばれー」

 

競輪場のマスコットは選手をイメージした「ガッツ玉ちゃん」。家族連れもファンもいて、子供の声援が場内に響きます。トイレも清潔で、喫煙者スペースも設けられています。野球やサッカーなどのスポーツ競技場なら当たり前の光景でも、迷惑施設と疎まれ続けてきた競輪場はエレベーターがあるだけでもマシな方で、屋根や壁が穴だらけで戦後期から放置され、取り残されている施設の方が多かったりする現状があります。

 

 

施設内には競輪の歩みやレースのポイントを分かりやすくパネル化したキャラリーを併設、主催の玉野市は競輪の観客による集客だけででなく、競輪事業による潤沢な収入で港湾整備や芸術祭、観光振興等に取り組み高い波及効果をみせています。

 

 

2022年のリニューアルは単なる改修工事ではなく、公営競技場のあり方を大きく転換するような急進的なテコ入れで、建て替えにはモンストやマイミクで一世風靡したIT企業「株式会社MIXI」傘下の「株式会社チャリロト」が参加、施設の包括的な運営を行っています。

 

 

本ブログではこれまで、岸和田奈良京都向日町小松島といった昭和臭する施設の現状を紹介してきました。玉野競輪場は行政から見放された老朽化公営競技施設の運営に新たな希望を与える成功事例といえます。しかし、玉野競輪場はこれだけではありません。同施設の本当のスゴさを2回にわたって詳説していきたいと思います。

都市型BMXレース「DOWNTOWN BMX」初開催

梅田で開催されたBMXレースTOYOTIRES「DOWNTOWN BMX」を観てきました。

 

 

8月26日、グランフロント大阪の南側のうめきた広場にて開催された「DOWNTOWN BMX」は、北京五輪代表の阪本章史さん発案の新しい都市型の自転車競技です。レースとフリースタイルが融合したスタイルで、およそ150m特設コースを1対1で走行、着順とジャンプから勝敗を決める世界初のイベントです。

 

 

大阪の人でうめきた広場を知らない人はいないと思いますが、JR大阪と商業施設グランフロントの間にある都市空間で普段から多くの人が行き交う場所です。定期的にイベントが開催され冬場はスケートリンクになったりしています。私は仕事終わりに立ち寄りセミファイナルから観戦、大勢のギャラリーで寿司詰め状態の会場はショーアップされ、すでに熱狂に包まれていました。

 

 

BMXは20インチの変速のない自転車で、ダートコースのレース競技「レース」とスケートパークでの演技種目の「フリースタイル」の2種目がオリンピックの正式種目となっています。このイベントには東京五輪BMXフリースタイル代表の大池水杜選手など両種目からトップ選手が出場、会場を沸かせていました。

 

 

コースレイアウトはダートレースをコンパクトにしたようなリズムセクションや湾曲ランプがあり、最大の見せ場は最後のジャンプ台でのエアーとなっています。どうやら、インコース側とアウトコース側を入れ替えて合計2本同じ選手と走り、2本とったら勝利、1勝づつで引き分けた際は最後のエアーの高さで勝敗を決するルールのようです。

 

 

ダートレースはスタートダッシュでおおよその勝敗が決まることが多いのですが、新競技はコーナリングも目が離せず、命知らずの選手が格闘技さながらの激しいバトルを見せつけ会場はヒートアップ、激しい接触で走行不能に破壊した自転車をなりふり構わず担いで猪突猛進する選手や鮮やかなトリックを披露し会場を沸かせる選手、初開催ゆえに本当に何が起こるかハラハラするスリリングな展開にボルテージは決勝を前に最高潮となりました。

 

 

 

決勝は雷鳴轟くなか、男子は吉村樹希敢選手の落車により2023年全日本選手権覇者の増田優一選手が初代王者に、女子は野村凪沙選手と浅見渚選手との「なぎさ対決」を蝶のような華麗なコーナーリングで浅見選手が制しました。両者ともにインタビューでは多数のギャラリーのいる大会での勝利を喜んでいる様子でした。

 

 

普段から人が多いこのエリアですが会場はいつもにも増して大盛り上がり、興行としても大成功だったのではないでしょうか。初開催でこの反響なら今後はさらなる発展の期待ができ、様々な場所から開催オファーが来るように思います。御堂筋エリアやアメ村、京都、神戸でも絶対に成功する感じがします(オレンジストリートでも是非やってください…)。この大会を観ると、そもそも、なぜBMXのレースは土走路のダート競技だけなのだろうと疑問が湧き、公道や公園を使用したBMXのストリートレースの発展の可能性を感じました。

 

 

競技の垣根を越えて融合した新種目は、さながら格闘技「K-1」の黎明期の雰囲気に重なります。メジャースポーツとはいえなかった空手がプロレスのリングに場所を移し新しいファン層を獲得したように、もしかすると近い将来、日本の大晦日は家族そろってBMX中継を観るというような未来もあるかもしれません。

神戸の洋菓子「モロゾフ」の話

サイクルショップ203の最大の取引先(仕入れ先)は神戸市のマルイという自転車商社です。マルイは国内の自転車店を網羅するほどの流通網を持ち、自社製品や国産部品の輸出も手掛けています。

 


▲「台北サイクルショー」のマルイのブース  2016年 撮影

 

マルイの創業はいまから100年程前で婦人靴などを主に扱っていましたが、1960年頃にオーストラリアの商社を買収し自転車の輸出入を開始、70年代には中興の祖である丸井功平氏(現会長)が渡米しTIOGAブランドのマウンテンバイクタイヤを販売、91年にはスポーツ自転車のステムの標準規格である「オーバーサイズ」(O/S)を考案、現在もBMXのトップレーサーのほぼ全ての選手が同社の製品を使用しています。あまり知られていませんが、世界初の量産マウンテンバイク「STUMPJUMPER」は功平氏が東奔西走して形にしたもので、米SPECIALIZEDや台湾のMERIDA、TOPEAKといった有名ブランドの育ての親といっても言い過ぎではありません。

 


▲大阪のメーカーが作成した世界初の量産型マウンテンバイク「STUMPJUMPER」シマノ博物館所蔵

 

本社は神戸の魚崎にあり阪神大震災では液状化で機能が停止、倉庫内に砂山ができる程の大被害を被りましたが、苦境を乗り切り現在では日本を代表する自転車商社となっています。毎年、秋には国内で取り扱いブランドを一斉に集めた展示会が東京・大阪で開催され、マルイの展示会が終われば新年度の始まりといった感じとなります。展示会にはお土産があり、神戸名物の洋菓子をいただくのが輪業人のちょっとした楽しみとなっています。

 


神戸菓子「モロゾフ」本社はマルイの対岸の六甲アイランドに所在

 

神戸は港町で居留地が置かれたことから、洋菓子文化が根付いています。魚崎には神戸を代表する洋菓子メーカー「モロゾフ」と「ゴンチャロフ」が所在しています。両製菓ブランドの歴史は戦前まで遡り、それぞれロシアからの移民に起源をもっています。現在はウクライナ戦争の影響で日露関係は冷え込んでいますが、1910年代は日露協約により両国の関係が歴史上最高潮に良好で、大日本帝国は今とは真逆でロシアに武器を供与、一方でウクライナ人と交戦し血潮を流しました。

 

1918年8月12日、日本軍はウクライナ人が多住したシベリアに兵を派遣、「シベリア出兵」という言葉は歴史の授業で習ったことを覚えている方も多いと思いますが、教科書にはその戦争のことは詳説されていません。私もウクライナ戦争が勃発してから知った史実なのですが、シベリア出兵で日本軍が対峙したのは、ロシアでなくウクライナ人国家の「極東共和国」というあまり聞き馴染みがない国のようなのです。

しかしなぜ100年前、ウクライナと遠く離れた日本海沿岸にウクライナ人国家があり、日本と戦争をしたのでしょうか。その背景は複雑で、当時の日本が関与したにも関わらず、現在では知られざる歴史となってしまっています。ピーク時には40万人以上居住したという極東共和国の起源は、シベリア鉄道と南満州鉄道をつなぐ短絡線「東清鉄道」にウクライナ人のドミートリ―・ホルヴァートが派遣されたことをきっかけとしています。ロシア中央政府から指揮官に任命されたホルヴァ―トは、ウクライナ人を呼び寄せ沿線は繁栄「幸福なホルヴァ―ト王国」と呼ばれるようになります。もちろん「王国」といっても東清鉄道はロシアの勢力下で、実際に国ではなく兵庫県南部を「阪急王国」と呼ぶような感じの俗称です。

その後もウクライナ人は増え続け、入植地はウラジオストック(浦塩)やサハリン(樺太)にまで拡大、1917年にロマノフ王朝が倒れ、ロシア革命が起きるとウクライナ人は「グリーンウクライナ」(緑ウクライナ)の建国を計画します。グリーンというのはデンマークのグリーンランド同様、極寒だけどなんとか植物が生える大地ですよ、といった感じなのだと思います。独裁国家なのに「朝鮮民主主義人民共和国」、統治時代の半分の国土なのに「韓民国」、日本の傀儡なのに満州人の「満州国」といった感じで、極東の国名というのは割と実状を投影しないものなのかもしれません。

 

green ukraine
1917年当時、極東には42万人のウクライナ人が居住した ヴィオレッタ・ウドヴィク著「日本とウクライナ」(2022)より

 

ロシア革命が勃発すると政情が不安定となり、共産主義に反対する「白系ロシア人」は亡命、この時に革命から逃れて神戸にたどり着いたのがモロゾフやゴンチャロフです。有名なところでは、プロ野球選手のスタルヒンや横綱の大鵬(出生名:イヴァン・ボリシコ)も白系ロシア人の血を引いています。

シベリア出兵はチェコ人の救出を大義名分にしていましたが、実際はロシア革命に対する干渉行為であり、レーニンは日本との全面戦争を避けるため、傀儡国家「極東共和国」を緩衝国として認定、日本軍を極東に釘付けにし欧州戦線への進出を阻みました。極東共和国は1919~20年と短命で、1991年にソ連の崩壊により秘蔵資料が解禁になるまで研究も進んでおらず、住民も日本軍撤退後に次第にロシア人に同化していきました。

 

 

本年3月、岸田首相はゼレンスキー大統領と会談のためキーウを訪問、5月にはゼレンスキー大統領が「G7広島サミット2023」参加のため電撃来日しました。終わりの見えないウクライナ戦争の着地点として国際社会が容認できるのはウクライナの「失地回復」に限定され、仮にロシアに勝利したとしても、日本の恩恵は限られます。日本は戦争による直接的な被害はありませんが、物価高騰などじわじわと影響が出てきています。このままでは、ウクライナ支援より足元の国内の経済的支援を優先させるべきという意見もでてくるように思います。

ソ連崩壊時には独立国家が東欧に15ヶ国が誕生しました。ウクライナ戦争終結後、日ウ両国に恩恵ある復興支援としてウクライナ人の「失地」である、サハリンやシベリア地区の独立支援があります。独立への障壁として、極東共和国に残された国民の帰属意識がウクライナではなく、ロシア人として同化してしまっていることです。横綱大鵬はサハリン出身で父親がウクライナ人ですが、自伝で関取になった後に自身の出生を週刊誌報道で知り、しばらく半信半疑だったとしています。

平和主義を標榜する日本はウクライナ戦争に参戦できる訳ではありません。このような状況下で日本がウクライナにできることは戦後支援であり、日本と両国の戦争史を深く知ることだと思います。

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