戦時中、大阪府北部の茨木市の安威川流域は、国家的な政策としてケシが耕作され、福井村を中心に一面に白い花が広がっていました。詳しくは2022年に川沿いをサイクリングした時の投稿をみていただきたいのですが、今回はさらに安威川を山間部までさかのぼり、戦中の日本軍の秘史を探究してみました。
【参照】安威川に咲いた二反長音蔵の白い花 (2022年12月1日投稿)
安威川は2022年に上流にダムが完成、茨木市は「ダムパークいばらき」として開発を進めています。今回は安威川ダムの1km南側、下流の本龍寺周辺に海軍の遺構があるようなので探索してみました。川は山間部を蛇行しながら南へ流れ、「阿片の里」から神崎川に合流、大阪湾にそそぎます。極秘任務なので海軍と阿片がどのような関係性があったのか分かりませんが、北摂のこの一帯には軍事施設が点在し、本土決戦に備えるための巨大な食糧備蓄の地下施設があったようです。
施設の存在は1993年になるまで公にはされず、全容は謎のままとなっています。これまでの調査で地下空間はトンネル状で「イ地区」「ロ地区」「ハ地区」と分かれ全長650m、熊谷組創業者の次男の熊谷太三郎が工事を請け負った記録が残っています。
トンネルは現存しているようですが一般公開されておらず、地元の人にもほとんど存在自体が知られていないため、とりあえず旧海軍がGHQに引き渡したとされる図面とGOOGLEマップを照らし合わせて、最初に事務所が設置されたとされる本龍寺を目指します。掘削工事は1944年秋から本龍寺の南側「イ地区」から始まり、「ハ地区」は完成を待たず終戦をむかえているようです。
本龍寺南側には祠と鳥居はありましたが、トンネルは道を挟んだ山塊にあり、私有地のようで入ることはできませんでした。イ地区は長さ50mの隧道が4本並行して掘削され、食料・航空機部品・下着類などの服、麻薬入りチョコレート・自転車200両が備蓄されていたと証言されています。麻薬入りチョコレートというのは、当時、食料工場となっていた茨木高等女学校(現在の府立春日丘高校)の校内で製造されていた携帯食で、特攻隊の最後の食事とされていた重要なものだったようです。
「ロ地区」はイ地区の500mほど北西側にあり、川の西岸沿いの未舗装の農道を抜けた「桑原運動公園」というテニスコートや野球場のある公園で小高い丘となっています。クルマの通行は難しく、農家の方の作業に差し障りがありそうなので、グラベルロードやマウンテンバイクの利用がおすすめです。
「こんなとこに、昔、秘密基地?! そんな話、聞いたことない」
農作業中の男性に話を聞きましたが、旧軍施設やケシ作付の話は全く初耳で驚いた様子で、興味深々の様子でした。農道を抜けると宅地開発された山に囲まれた閑静な住宅地となっていました。
運動公園では若い男性グループがサッカーをしていました。地下トンネルは大きなもので高さ3m、長さ110mで現在は内部に水が溜まっているそうです。掘削には20名ほどの朝鮮人が徴用され、うち1名の金泳久(キム ヨンク)元作業員が強制連行を主張、これに府立山田高校の教職員グループが注目し、加害責任や侵略戦争に踏み込んだ銘版設置や冊子作成など精力的に運動されているようです。教職員グループの行動力は感心しますが、このグループが主体となって朝鮮人視点の郷土史を紡ぐことには疑義が残ります。
トンネル工事には測量や図面作成といった高い技術が必要となり、朝鮮人が指揮した訳ではありません。過酷な労働ではありますが、半島工員は日本人と同じ食事が与えられ、臣民として現場で従事しました。朝鮮人は練度が低く、米軍のB29から機銃操射された際も、頭を抱え「アイゴー」と泣き叫さけび、隠れもせずに逃げまわり、作業期間中は盗みや脱走など不逞行為が相次いだようです。
山田高は1993年に3年生7名による地元の住民や関係者など55人に聞き取りを実施、生きた教材として文化祭で発表しています。調査は高校近くの「山田海軍地下弾薬庫」についての調査でしたが、朝鮮人強制連行の事実はつかめなかったとしています。生徒達は「朝鮮文化研究会」という部活動に所属、戦後にトンネル内で笠置シズ子の歌謡ショーがあったことやケシ栽培の二反長音蔵に会った女性の証言などがまとめられた資料「故郷への轍」を作成しています。資料は大変貴重な証言が多数掲載されていますが、朝鮮人による歴史観が色濃く、ちゃんとした歴史家や構造建築の専門家による再調査の必要性を感じます。ちなみに「故郷への轍」と書いて「コヒャンへわだち」と読みむようです。
▲安威川地下倉庫を調査する一団 (朝日新聞1996年6月1日)
大阪には戦前より在日朝鮮人が多住していて、本ブログでもこれまで親子爆弾事件、阪神教育運動、グリコ森永事件や猪飼野愚連隊、アパッチ族また生駒山の朝鮮寺と在阪の朝鮮人について触れてきました。私は日本人ですが、朝鮮文化というのは本当に独特の思考で、ひきつけられるものがあります。
金泳久元作業員は重労働に耐えきれず逃げ出しましたが、辿り着いた場所は10mごとに死体が転がる無残な光景が広がり、なんとか職にたどり就けた途端に皮肉にも終戦となった当時を振り返っています。金泳久以外の作業員の行方は不明ですが、1952年には在日朝鮮人と上田等ら共産過激派による騒擾事件「吹田事件」が発生、笹川良一代議士宅や吹田の操車場を襲撃しました。事件と工員の直接的な関連性は分かりませんが、アパッチ族の金時鐘(キム・ジジョン)は事件の際に陸軍の拠点となっていた「茨木カントリークラブ」北側に隣接する道祖本(さいのもと)地区の協力者を頼ったとしています。ちなみにカントリークラブ西隣は笹川の本妻宅がある辨天宗本部で、笹川によって巨大な戦没者慰霊塔が建てられています。
朝鮮人が蔑視された歴史的経緯を含めて、山田高の教職員やクラブ員の方には今後も調査を継続していただきたいと思います。最後に金時鐘が吹田事件に参加したことを回想した詩が残されていますので紹介したいと思います。
ズボンの/内側を/はぎとり/むれる/悪臭の/修羅場を/城ごと/あけ渡したのだ。
悲哀とは/山に包まれた/脱糞者の/心である。 (金時鐘「わが生と詩」から詩の一部を抜粋)
金時鐘は操車場襲撃直前にあろうことか緊張のあまり脱糞、自らを脱北者ならぬ「脱糞者」として左翼運動家だった若いころを綴っています。「悲哀とは山に包まれた脱糞者の心である」という一節は金泳久とも重なり、当時の朝鮮人の心境を見事に表現しています。
今後も本ブログでは郷土の歴史を探索していきたいと思います。