「高いところから失礼します。大阪の成長のために必要なんです。
都構想を再挑戦させてください。あの昔の、二重行政の…」
店前につけられたトラックの荷台には吉村洋文知事が乗っており、フリップを片手に演説が始まった。
ソーシャルディスタンス演説と銘打たれたこの演説の聴衆は私を合わせて10人ほど、都構想の意義を丁寧に説明する姿は真面目そのもの。しかし、投票日を翌日に控え、連日各局のテレビに出演し大忙しのはずの知事を囲む人はあまりにも少なく、聞き入りながらも、もう少し別のやり方があるのではないかと思えるほどでした。
一方で、反対派は反目しあう自民・共産が手を組み、なりふり構ない姿勢で対抗。結果はご存じの通り前回同様に反対派が僅差で勝利し、知事の掲げる「大阪都構想」は実現には至りませんでした。
反対派のひとつの意見としては、「都」といっても別に東京都のように首都機能が備わる訳ではなく「大阪市」がただ消滅するだけであり、大阪の成長には「都構想」はふさわしくないという主張です。
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昨年のあの住民投票ももう随分前のように感じますが、
今から遡ることおよそ150年、1868(明治元)年に京都から大阪を首都を移転する「大阪遷都論」が議論されていたのをご存じでしょうか。
作家の若一光司氏は著書「大阪が首都でありえた日」(1996,三五館)のなかで、桜の通り抜けで知られる天満の造幣局は、その名残であるとしています。
一体、どういうことなのでしょうか。
当時の足跡をたどるためにサイクリングにいってきました。
|盛泉寺 (守口市) スタート
1868年、徳川幕府の大政奉還を受け、維新の指導者であった大久保利通は、京都から大阪に首都を移転する「大坂遷都論」を進言、公家や諸大名が異議を唱えるなか、行幸という形で15歳の少年天皇を大阪へ向かわせます。大久保は天皇を公家から引き離すことで、新政府の権力を掌握できると考えたのです。
遷都の意思を持った行幸で、3月21日に三種の神器の八咫鏡と共に明治天皇は初めて京都を離れ、守口市の盛泉寺に到着、ここで天皇が初めて御所の外で一夜を過ごされます。
|盛泉寺 ~ 難宗寺 (守口市) 約3分
当時のことが分かるものが何かあるかと思いサイクリングでいってみたのですが、盛泉寺は門扉が閉ざされていて境内に入ることができなったので、近くにあるゆかりの寺社の難宗寺を参拝。こちらのお寺もそれほど参拝者が多く訪れるような雰囲気の寺院ではありませんでしたが、樹齢500年のいちょうの木が保存樹木として神木化されていたので、秋に本気出すタイプの寺やなと勝手に解釈して写真だけ撮って大阪方面に向かいました。
|難宗寺 ~ 淀川 約20分
一泊した明治天皇は、天満橋の八軒家浜を目指し船で淀川を下り大阪に向かいます。
河川敷は整備されていて「淀川サイクリングロード」になっていて信号もなく気持ちよく走ることができます。
ただ、一定区間ごとに自転車を止め、ペダルを平行にしないと通行できない車止めの鉄柵がつくられています。この鉄柵さえなければ、もっと走行しやすくいいサイクリングロードになると思うのですが、、
淀川沿いを1時間ほど走り、大阪市内に入り毛馬(けま)の閘門(こうもん)で進路を南に変え、大川を下ります。大川も自転車道が整備されていて、中之島まで舗装された川沿いを走行することができます。
|造幣局 ~ 北御堂 約30分
新政府は大久保の建白書により新首都の候補地である大阪に硬貨を鋳造する造幣局本局を設置することが決ます。しかし、こうした一連の大久保の行動に異を唱える人物がいました。のちに”郵政の父”とされる前島密です。前島は大阪の欠点を指摘、蝦夷地に近い江戸を新首都にすべきだという「江戸遷都論」を展開し両氏は対立します。
明治天皇は、坐間神社・大阪城・住吉大社・天王寺公園などを訪問するなどおよそ1ヶ月間大阪に滞在、京都で足止めを食らっていた大久保は公家などを説得し、ようやく北御堂にて天皇への面会が許されます。
|北御堂 ~ 天保山 約50分
200年以上にわたって歴代天皇が目にすることができなかった海。
大久保は天保山に近代的な軍艦を並べ明治天皇に見ていただき、海軍の威力を用いて旧幕府軍の息の根を止め、天皇と一体化した新政府を大阪に樹立しようとしたのです。
ところが天皇が大坂から京都に還幸するやいなや風雲急を告げる事態が起こります。
江戸城が無血開城されると今度は江戸行幸が決定、江戸はそのまま東京となり事実上の首都となったのです。
明治天皇が観艦した場所にはそれを示す碑が建てられいました。天保山と言えば海遊館ぐらいしか知りませんでしたが、そんな歴史があったんですね。
ちょうどおなかがすいたので、近くにあったレトロなビルを改装したいい雰囲気のうどん店に行ってみました。
「カルボナーラうどん」という、これまたおしゃれなメニューです。カフェじゃなくて、うどん店というのがまた大阪らしくていいですね。
若一氏は自身の歴史音痴ぶりに自省の念を込めながらも、これら幕末から維新にかけての疾風怒濤の時代についてまとめられた書物が皆無で、大坂遷都に関する資料の調査だけでも何日もの試行錯誤が必要だったとしています。
私もこの書籍を読んで初めて詳しい経緯を知り、もし大阪が首都になっていたら今頃どうなっていたのであろうかと思いながらゆかりの地を巡りました。日本の文明崩壊まで東京が首都であることは変わらないような絶対的権威をもっているように思っていましたが、歴史というものは前島や大久保のリーダーの考え方ひとつで大きく変わるんだなと改めて歴史を知ることの大切さや面白さを思い知りました。