今からちょうど120年前、米インディアナ州東部出身のウィルバー・ライトはオハイオ州デイトンで自転車店「ライト自転車商会」を経営していました。この頃、ミシュラン兄弟によって空気入りタイヤが普及が進み、米国でも自転車が急速に広がっていました。ウィルバーの自転車店も評判で、売上金を元手に弟のオーヴィルと飛行機「ライトフライヤー号」の作成に挑戦、1903年に世界で初めての動力飛行に成功しました。飛行距離36m、見物人は5人と注目されていませんでしたが、大空への夢を乗せたこの12秒は人類にとって大きな一歩でした。

今期、NHKで放送中の朝ドラ「舞い上がれ!」は、大空を舞う夢をみるヒロインを福原遥さんが演じ「育成成功」と話題を集めています。舞台は町工場が集中する平成期の東大阪、幼少期から飛行機に憧れ、夢を実現するために懸命に生きる姿が描かれています。

 

maiagare higashiosaka

 

東大阪は大阪平野の東部にある政令市で、技術力の高い中小企業が多く集まり人工衛星「まいど1号」の開発でも知られています。自転車関連企業もベビーシートのOGK技研などがあり、大阪市からも近いことから物流拠点としても活用され、トラックの通行量が多い地区になっています。

 

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自転車ベビーシート全国首位の「OGK技研」(東大阪市高井田)

 

福原さん演じる舞ちゃんの家はネジ工場という設定で、髙橋克己さんが社長として舞の父を演じています。東大阪にはラグビーの聖地「花園ラグビー場」があり、毎年高校ラグビーが開催され、2019年にはラグビーのW杯の大会にも使用されました。舞の父は元ラガーマンという設定で、高校時代にラグビー部だった高橋さんのはまり役となっています。

 

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戦後より、この地区で働く工場労働者のために提供された濃い醤油味の中華そばは「高井田系らーめん」として全国的に知られ、点在する麺屋に多くのラーメンファンが訪れています。チェーン店と異なり、店は狭くトイレもない店がほとんどですがリーズナブルな価格と受け継がれている癖になる太麺は地元民にも愛され、私がこの日入った「中華そば 住吉」も常連で満席でした。

 

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舞ちゃんは航空工学を専攻すため「浪速大学」に入学、人力飛行機のサークル「なにわバードマン」に入り琵琶湖での記録飛行を目指しパイロットに志願、12万8000円の中古ロードバイクを値切って購入しトレーニングに励むようになります。役作りのために福原さんはロードバイクの乗車レッスンを受けて、ロケは実際に東大阪市内の自転車屋と公園で収録されたようです。浪速大は架空の大学で大阪公立大がモデルとなっています。大阪公立大は市大と府大が統合されて本年に開設された大学で、現在森ノ宮に新キャンパスを建設中です。新キャンパスから高井田までは5kmほどで、ロードバイクなら30分もかからない距離となります。新キャンパス予定地には、かつて「城東練兵場」があり戦前に飛行場として使用されていました。

 

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森ノ宮に建設中の大阪公立大の新キャンパス 2022年11月撮影

 

城東練兵場は狭小で周囲に障害物多く夜間飛行ができず、航空産業の発展や大阪の防空のためにより大きな専用施設が必要とされました。そこで1933年に東大阪に計画されたのが「大阪防空飛行場」です。大阪防空飛行場は広大な施設でしたが、終戦後に敷地が払下げられ残念ながら当時の面影はほとんど残っていません。このことはおそらく朝ドラで語られることもないでしょうが、現在の東大阪に町工場や倉庫業が集中しているのもこの飛行場が大きく関係しています。

 

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水田の真ん中に開港した「大阪防空飛行場」 伊藤隆編「国防と航空」(2010,中央公論新社)

 

この頃、アメリカではチャールズ・リンドバーグが大西洋横断飛行に成功するなど名声を獲得、31年には航路の調査のため来日し航空技術が目覚しく発展した時代でした。アメリカに追いつくべく国粋大衆党の党首・笹川良一は京阪神の防空のため私費を投じて「国粋義勇飛行隊」を設置、21名の飛行士を養成し中河内郡盾津村(現在の東大阪市新庄周辺)の水田の真ん中に同飛行隊の専用飛行場の建設を計画しました。施設は完成後に笹川の意思により陸軍に寄贈され終戦まで運用されました。

笹川も舞ちゃん同様に幼少期より飛行士を目指し、小学校を卒業すると軍隊に入隊します。ライト兄弟の快挙からまだ10年ほどしか経っておらず、一般には飛行士は冒険家のような扱いをされていた時代です。しかし、笹川の家系は裕福な庄屋で、良一少年は父に飛行機1機を手配をうけて、入隊時には操縦術を習得していたようです。

笹川はその後右腕を負傷し政治家に転身、第二次世界大戦が勃発し「バスに乗り遅れるな」とほとんどの議員が「大政翼賛会」に合流する状況下で行われた翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)にて当選、笹川は株式相場で財産を蓄えて北浜に事務所を構えて東條内閣に反対姿勢の大衆政党「国粋大衆党」にて出馬していました。

 

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笹川の活動は大阪にとどまらず、自らが戦火の最前線に飛び立ち、日中戦争最中の関東軍やスパイの川島芳子を慰問、満州国皇帝の溥儀や中国南京政府の汪兆銘と面会するなどしました。前回の投稿の通り、日本は満州の利権をめぐって世界から孤立していて抜き差しならない状況でした。笹川はムッソリーニに協力を仰ぐためイタリアに飛び会談、翌年には「日独伊三国同盟」が締結され英米からの侵攻を回避しました。

 

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ムッソリーニと会談に向かう笹川良一(中央の袴の男性) 

 

飛行場では資材不足の戦争末期には松下航空機が木製飛行機を試作、松下航空機は松下幸之助の義弟の井植年男が代表を務める企業で飛行場のそばに工場を新設し、戦後は三洋電機として家電メーカーに転業、昭和を代表する大企業へと成長します。

 

「300万台重要は、ざらにない」

 

松下幸之助も井植と同様に戦争が終わると家電生産に復帰、1951年には自転車の大きな需要を見込み製造を開始し米国輸出やタイヤ工場の建設など業界をけん引します。50年代の長者番付上位は井植と幸之助、そしてブリヂストンの石橋正次郎と自転車産業は花形産業となり、自転車企業の集中する大阪は戦後の焼野原から見事に復活をとげます。1970年に開催された「日本万国博覧会」はまさに大阪の絶頂を象徴し、三洋館「人間洗濯機」や競輪助成金によって敷設された「動く歩道」は世界を驚かせました。

 

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大阪万博に使用されたサンヨーの電動自転車 「EXPO’70パビリオン」 所蔵

 

以前にも紹介しましたが笹川と幸之助は同じ宗教を信仰し、共に社会貢献活動に熱心に取り組みました。笹川は「競艇のドン」として知られ、最近では「国際勝共連合の~」といった文脈で語られ悪名を着せられていますが、同氏の功績はその時代背景とあわせて考えなければならないように思います。

 

 

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戦争が終わると飛行場の敷地は払い下げられ現在のトラックが行き交う工場地帯となりました。盾津中学校の北側にはひっそりと慰霊碑があり、この飛行場で訓練を受けて沖縄の海で敵艦目掛け戦死した学生を追悼しています。自転車に跨り慰霊碑を眺めていると、教員の方が校内に入れて下さり銘板を見ることができました。銘板には笹川の名はなく「民間からの寄付」と説明されていました。

笹川の誰もが驚く破天荒なストーリーはおそらく「舞い上がれ!」にはないと思いますが、前回の朝ドラの失速から「#ちむどんどん反省会」とSNS上で話題になった「二の舞」だけにはならないように見届けたいと思います。

 

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