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新時代の到来「第8回サイクルパーツ合同展示会」

1月24、25日東京・浅草「東京都立産業貿易センター台東館」で開催された「第8回サイクルパーツ合同展示会」に行ってきました。

 

cycle expo 2023

 

同展示会は2016年からメーカーと自転車店を結ぶ展示会として始まり、国内最大の自転車部品の展示会となっています。国内メーカーだけでなく輸入業社もあわせて170社以上の企業が参加、新商品が実際に手に取って確かめられ、ビジネスの場として業界では認知されてきています。本ブログでも何度か取り上げていますが、昨年・一昨年とコロナの影響で中止となっていて業界も時計が止まったようになっていましたので、今回の開催はまさに新時代の幕開けといった感じでした。

 

skytree

 

会場の台東館は浅草の浅草寺の東側、ちょうど東京スカイツリーが見える方向に位置します。展示会は施設の4~7階の展示室で開催、多くの関係者が来場していました。コロナの影響で営業回りを自粛していたメーカーも多く、ここぞとアイテムのPRに熱が入っていました。

 

macoff

 

個人的な注目を上げますと、ベビーシートでお馴染みの東大阪のOGK技研のサイクルトレーラー「Camily」(キャミリー)は、新しい自転車アウトドアスタイルの提案をしていました。発売から1年程になるそうですが、自治体から防災目的での一括受注など想定していなかった活用方法があり、メーカー側も驚いているそうです。

※サンプルをお借りすることができましたので、2月末まで店でも実際に見ていただけます。

 

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▲ OGK技研のサイクルトレーラー「Camily」

 

展示会の当日は最強寒波の到来で今年一番の冷え込みとなり、雪のため飛行機や新幹線が欠航や遅延し出展をキャンセルしているブースも散見されました。会場では入場制限こそないものの、感染予防のためマスク着用・検温が義務付けられ、入退出の際は除菌スプレーを使用するなどコロナ対策をとっていました。

 

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「もう、今からでは手に入らないよ」

2023年4月からはヘルメット着用が努力義務化、3ヶ月でヘルメット工場が建設できる訳もなく4月から始まるヘルメット争奪戦を前に、転売屋に遊ばれるくらいなら目先の利益を追求せず、早々と白旗宣言している参加者の声もありました。唯一の国内メーカー「OGK KABUTO」や「GIRO」「ABUS」「LAZER」など海外ブランドも出展されていました。

 

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台湾の新興メーカーや中国の令和最新版に圧されすっかり斜陽産業の代名詞となってしまった日本の自転車産業ですが、ここ数年、工場を持たないファブレス生産により大きな設備投資のリスクを負わず軽いフットワークで設計開発に専念する日本のブランドが台頭し始めています。代表格としてトラスポーターラックという大型フロントキャリアをヒットさせた「ADEPT」です。たまたま帰りの新幹線が遅延し、開発・営業の方と話ができたのですが、生産は中国製ではなくすべて台湾に集中させることで品質や効率性をマネジメントすることでブランド力を向上させていると話していました。

 

 

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ファブレス生産の新ブランド「PDG」

 

 

バルミューダや無印良品と、ファブレス生産は家電など各分野では珍しくなくなっています。タイヤはタイヤメーカー、ヘルメットはヘルメットメーカーと分業体制が確立され産業集積を形成してきた日本の自転車産業も新たな段階になっているのかもしれません。

 

 

大阪府「ギャンブル等依存症対策基本条例」成立

2022年10月26日に全国初となる「大阪府ギャンブル等依存症対策基本条例」が成立しました。ご存じの通り、大阪府・市はIRの此花区の人工島「夢洲」にて、万博終了後にカジノ施設の開業を計画しています。同条例はギャンブル依存症への対策や理解を広げる狙いがあり、依存症患者と家族を支援する拠点整備や対策に必要な財政措置を府に求める内容を盛り込んでいます。

同条例では、公営競技やパチンコ等は楽しみをもたらす一方で、のめり込むことでギャンブル等依存症に陥る府民も少なくないとしています。さらに、ギャンブル等依存症は多重債務や失業といった経済的問題を引き起こし、日常生活や社会活動に支障を生じさせ貧困、虐待、自殺、犯罪など重大な社会的問題を引き起こし、海外オンラインカジノの増加で深刻化する傾向を指摘、依存者や家族が安心して相談や治療を受け社会復帰することを目的としています。

政府は2018年に「ギャンブル等依存症対策基本法」を施行、各都道府県に推進計画を策定する努力義務を課していましたが、府は新条例に基づいて「大阪府ギャンブル等依存症対策推進会議」を設置し、2023年3月までに「ギャンブル等依存症対策推進計画」を策定、財源を確保のための基金の新設など専門家や現場の声を取り入れながら対策を進める計画となっています。

 

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全国初のギャンブル依存症対策条例が成立   朝日新聞 大阪版 10月27日 夕刊

 

条例にもある「公営競技」とは公的機関が開催する賭博で、現在では競輪・ボートレース・地方競馬・オートレース・中央競馬が97施設で合法的に実施されています。施設の運営は自治体や団体が管理、大阪府下には岸和田市「岸和田競輪場」と箕面市などが競走を主催する「住之江競艇場」が所在していますが、府営施設は廃止され、現在は一施設もありせん。京都府は「向日町競輪場」、奈良県は「奈良競輪場」、和歌山県には「和歌山競輪場」と基本的には都道府県が運営する施設があり競走を開催していますが、大阪府は公営競技を実施していません。

2016年に成立した「自転車活用推進法」では14の基本方針が示され、駐輪場や自転車専用道路の整備などと同様に「自転車競技のための施設の整備」(第二章 第八条 四)という責務が地方公共団体に課されていて、さらに「住民の理解を深め、かつ、その協力を得るように努めなければならない」(第一章 第四条)としています。府はカジノ施設の開業と並行して、競輪場の設置も計画しなければならない状況なのです。

 

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奈良市にある「奈良県営競輪場」 2021年3月撮影

 

現存する競輪場のほとんどは1948~53年の5年間に設置された施設で老朽化が進んでいます。建替えや改装をして新しくなっている施設もありますが、公営の全く新しい競輪場は70年誕生しておらず、ほとんどの施設は時代に取り残された昭和の雰囲気を残しています。

 

 

<戦後の大阪府下の公営競技場>

住之江競艇場 [1956年-] 箕面市など主催
住之江競輪場 [1948-1964年] 政治的判断で休止
大阪中央競輪場 [1950-1962年] 政治的判断で廃止
豊中競輪場 [1950-1956年] 政治的判断で休止
岸和田競輪場 [1951年-] 岸和田市主催
大阪競馬場 [1948-1959年] 政治的判断で廃止
春木競馬場 [1929-1974年] 売上低迷により廃止
長居オートレース場 [1951-1952年] 売上低迷により廃止

 

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老朽化が激しい競輪場の施設   奈良競輪場2021年撮影

 

 

競輪が始まった1948年はまだ連合軍占領下で戦禍の瓦礫が累々と取り残され、電力や食糧の確保もままならない社会情勢で競輪は空襲された都市を中心に復興目的で開催されました。48年に小倉(北九州)と大阪住之江の2ヶ所、翌年には東京・神戸・京都・和歌山・西宮・鳴尾(甲子園)など19施設、5年間で全国に63競輪場が突貫工事で建設され熱狂的な人気となりました。戦後の奇跡的な経済復興には、このような大規模な公共投資による財政政策あった史実はあまり知られていませんが、競輪の収益金はその後の高度経済成長期におけるニュータウン建設や大阪万博、また公衆衛生や社会福祉事業などの都市基盤整備の貴重な財源として大きな役割を果たしました。競輪の大成功を受けてその後にモーターボート競走と中央競馬が各地で開催されるようになり、日本は米国に次ぐ経済大国へと成長しました。

一方で、公営競技は様々な問題を引き起こし、その存廃を巡って議論されてきました。特に、競輪が始まった48年から破壊活動防止法が成立するまでの5年間は、売上金狙った放火略奪事件が競輪場で相次いで発生、なかでも50年に兵庫県の鳴尾競輪場で発生した大暴動「鳴尾事件」は、観衆1万人のうちおよそ半数の5000名が騒動に加わり、警察や米軍憲兵が鎮圧にあたる事態となり、死者1名、250名の逮捕者を出し、影響を受けて開催自治体の鳴尾村は廃村となってしまいます。

 

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鳴尾競輪場で発生した大暴動「鳴尾事件」 1950年9月

 

このような状況に日本共産党を中心に公営競技廃止論が高まりはじめ各地で革新首長が誕生、1975年4月の東京都知事選は都営ギャンブルの存廃を争点に廃止論者のマルクス経済学者・美濃部亮吉とそれに真っ向反対する石原慎太郎が激突、石原が敗北し後楽園競輪が廃止される事態となります。大阪・京都市でも共産党が支持する候補者が当選、財政的な視点ではなく首長の政治的なイデオロギーにより撤退が相次ぎました。

(石原と公営ギャンブルについては昨年7月に追悼のブログを投稿していますので、そちらをご参照ください)【追悼】石原慎太郎の屈辱と野望「新しい競輪」 [2022年7月7日投稿]

 

このように公営競技は合法ながらも政治思想によって運営が制限され、開催日を土日祝に限定する「ギャンブルホリデー」(1963~84年)や公営競技場の新設を推奨しない「長沼答申」(1961年)などの方向性がしめされました。ただ、ギャンブル熱がそれで収まったかというとそうではなく「長沼答申」が出された同年に大阪府警OBの水沼年得はパチンコの換金を仲介業者で行う「三店方式(大阪方式)」を考案、それまで出玉を景品に交換していた遊戯は金銭に交換可能なギャンブルとて大流行し現在に至っています。

パチンコは効果音やパターン点滅を採用した射幸心を煽る遊技台を各メーカーが開発、パチンコホールも休催日もほぼなく毎日営業するため非常に依存性が高くなります。精神科医の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏が、2005年から2年かけておこなった依存者の嗜癖調査では、患者100人中96人がパチンコ・パチスロを嗜好し、競輪は100人中たった1人、サイコロ賭博や花札よりも少ないという実態が報告されています。

新条例ではパチンコと公営競技の依存を同じように定義していますが両者は性質が異なり、公営競技は「反対する声」を真摯に受け止め、行政と一体となり改善を重ね、現在では適正円滑に遂行され依存症対策の規範となっています。27日付の朝日新聞(大阪版 夕刊1面)では、薬物依存者の対談を掲載し新条例成立を掲載していますが、本当にリテラシーがなく誤解を招く報道姿勢だと思います。

 

 

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競輪は日本生まれの世界スポーツ「KEIRIN」として2000年のシドニー五輪からオリンピックの正式種目にもなっています。その際、同時に競技規則が屋内型の250m板張り走路と厳格化されたのですが、日本国内にはこの国際基準の施設がなく、ほとんどの施設が賞味期限切れとなっています。新ルールになり20年以上が経過、欧州各国・米国・カナダ・豪州などの先進国は公認ベロドロームを設置、中国・ロシア・香港・インド・イスラエル・コロンビア・トルクメニスタン・マレーシアなどでも国際大会が実施されています。母国としては一刻も早く施設の整備を進めたいのですが、なかなか理解が深まらず各基礎自治体から具体案がでてきません。

 

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外国語案内がない公営施設「小松島競輪場」 2021年8月撮影

 

条例成立は府民一人ひとりがギャンブルについて考えるきっかけとなる一里塚で、この先、公営競技をどのような展望があるのかといった大綱や具体的に府営競輪場をどこに設置すると経済効果があがるのかといったシミュレーションなどが議論のテーブルに上がれば、より高いレベルの地方自治が実現できると思います。

本ブログでは2025年に此花区の人工島「舞洲」で開催される関西万博のパビリオンをスポーツアリーナとして再活用し、カジノ施設に訪れた海外のギャンブル好きの観光客の方に本場の競輪を体感していただくことで、文化やスポーツ・レジャーとして魅力的な相乗効果があるのではないかと考えています。

舞洲の成功がドミノのように各自治体に広がり、停滞する日本経済に神武の再来となる好況が期待できると思います。パチンコホールは全国で8000施設ありますが競輪場は42施設、本来は適材適所に設置すべき公営施設は政治的な対立を経て、忘れ去れた存在となっています。石原亡き今、声を上げる者もなくなり、日本は母国の輝きを失いつつあります。

自転車パーツ 店舗売上ベスト10 【2022年】

2022年のパーツの売り上げ点数ランキングトップ10です。

 

 

第1位
abus 5805combo
【メーカー】ABUS
【商品名】5805C
【税込価格】5940円
【特徴】ドイツブランドABUSの4桁のチェーン錠。長さ110cmで、ダイヤルは好みの番号に設定することができる。

 

 

第2位
abus 5805
【メーカー】ABUS
【商品名】5805K
【税込価格】5940円
【特徴】第1位の「5805C」のキータイプ。スペアキー付きで、盗難見舞金対象モデル(要登録)

 

 

 

第3位
lezyne

【メーカー】LEZYNE
【商品名】classic drive 500
【税込価格】6490円
【特徴】円筒型のクラシックなフォルムながら500ルーメンの高輝度ハイテクノロジーな充電式の前照灯。クロモリ製自転車にも似合う雰囲気。残念ながらシルバーが廃色となり、ブラックのみとなります。

 

 

第4位
lezyne minidrive
【メーカー】LEZYNE
【商品名】mini drive400
【税込価格】4950円
【特徴】美しい仕上げのアルミボディに400ルーメンの高輝度の前照灯。ハイテクノロジーな台湾製の自転車部品を象徴する充電式ライト。

 

 

第5位
maxxis refuse
【メーカー】MAXXIS
【商品名】re-fuse
【税込価格】5500円
【特徴】耐パンク性の高いブレーカー入りのタイヤ。クロスバイクのパンク修理で来られた方に、選択肢のひとつとして提案していて、高評価をいただいております。

 

 

 

第6位
abus 1500
【メーカー】ABUS
【商品名】1500
【税込価格】2992円
【特徴】ABUSの110cmのチェーン錠で最もリーズナブルなタイプ。

 

 

第7位
maxxis  detonator
【メーカー】MAXXIS
【商品名】Detonator
【税込価格】4400円
【特徴】GIANTのクロスバイク「ESCAPE」等に採用されていたオーソドックスなタイヤ。

 

 

第8位
knog 2021
【メーカー】knog
【商品名】Oi
【税込価格】2970円
【特徴】クラウドファウンディングKICKSTARTERで資金を調達し開発された、革新的な自転車用ベル。

 

 

 

第9位
finishline dry
【メーカー】FINISH LINE
【商品名】DRY (120ml)
【税込価格】1375円
【特徴】定番中の定番のチェーンオイル。

 

第10位
knog frog
【メーカー】knog
【商品名】frog V3
【税込価格】3960円
【特徴】knogのシリコンボディのライト。ランキングの中で唯一の新商品。

 

 

 

 

 

※キックスタンド,チューブ,シマノのブレーキシュー・ワイヤー・チェーンを除いたランキングとなっています。

 


 

 

高騰する自転車パーツ、ヒット商品は皆無

昨年とほとんど同じランキングで、特にヒット商品はなくABUSのチェーン錠など定番のロングセラー商品がコンスタントに売れている状態となっています。本年はほぼすべての商品が値上げとなりましたが、それでも売れ続けているブランド力の賜物といえます。また、コロナ禍でもほとんど品切れを起こさず、安定供給できているのもセールス数を保つ要因といえます。一方で、新商品はどれも値段が高くなってしまい、飛びつくように売れるアイテムは皆無でした。第10位のknog「frog V3」や秋に発売された「SCOUT」などはもっと売れるかと思いましたが、国内のユーザーの反応は冷ややかだったように思います。

「能勢農場」は本当に過激派のアジトなのか

6月の本ブログで、未解決の1993年11月西宮競輪場の売上金2700万円強盗事件の真犯人が「鉄ちゃん」こと金翼哲(キム・イクチョル)を実行犯とした犯行グループであるというという投稿をしました。犯行グループは、西宮競輪場強盗の翌年94年8月には福徳銀行3億円強盗に成功、2つの強盗事件は未解決のまま時効を迎えました。

この事件について取材をしていた朝日新聞の森下香枝記者が2007年に出版された「真犯人」(2007,朝日新聞社)で、新事実としてさらに鉄ちゃんが昭和最大のミステリー「グリコ・森永事件」の犯人「かい人21面相」であるという衝撃の報告をしています。

昭和を生きた人なら「グリコ・森永事件」を知らない人はいないと思いますが、同事件も未解決のまま時効を迎え、今でもその犯人像を巡って様々な考察がされています。2020年には事件をモチーフにした映画「罪の声」は日本アカデミー賞にノミネートされ最優秀脚本賞などを受賞、原作者の塩田武士さんは新聞記者をしながら事件を再調査、「極力、史実通り再現しました」と発生日時や事件報道を再現しています。

映画では、かい21面相は複数犯であり、鉄ちゃんらしき人物や株価操作の仕手筋に加えて、過激派の共産主義者が犯人が群像劇として描かれています。森下記者の「真犯人」ではさらに具体的に、江崎グリコ社長誘拐や森永製菓青酸ソーダ混入の実行犯の通称「ビデオ男」が鉄ちゃんであるとされ、重要参考人のいわゆる「キツネ目の男」として極左の男が捜査線上にあがったとしています。本を読んでいて犯人について少し気になったので実際に現地まで行って調べてみました。

昭和の日本を震撼させたキツネ目の男とはいったい誰なのか。「劇場型犯罪」とされ多くのメッセージで警察を翻弄した「かい人」は一節の句を詠んでいます。

 

はなよりも 箕面のさとの もみじ狩り みのひとつだに とれぬけいさつ

 

新古今和歌集の一節をもじった句からは、犯人が挑発的で知的水準がかなり高いことが見て取れます。箕面とは青酸入り菓子が発見された場所のひとつで紅葉の名所と知られています。大阪市内から北へ20キロ、大阪平野最北端で、さらに北側にいくと能勢町となり、山がちで大阪では珍しく農業が盛んにおこなわれている地域となります。

 

 

公安はグリコ森永事件の容疑者として、能勢で自然派農場「能勢農場」の設立メンバーの上田等(うえだ・ひとし)を執拗にマーク、農場を昼は鍬を持ち畑を耕し、夜はマルクス主義を座学する「過激派の巣窟」としていました。

上田は1952年6月の「吹田事件」のリーダーのひとりで、笹川良一宅襲撃の部隊の責任者でした。吹田事件は日本共産党と在日朝鮮人が結託し計画された騒擾事件で、大阪大学豊中キャンパスに集結したデモ隊がその後に分裂し夜通し各所を遊撃したテロ事件です。詳しくは本ブログで以前に投稿していますのでそちらを参考いただきたいのですが、襲撃当日は笹川本人は自宅に不在で、情報と証言不足から起訴や逮捕者もなくこの事件は記録から消滅し、裁判終了後も未解明となっていました。

 

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▲15人が有罪となった三大騒擾事件のひとつ「吹田事件」1963年6月22日 読売新聞 夕刊

 

 

上田の父親は東大数学科出身の数学教師、祖母が私立学校の金蘭会学園の創設者のひとりで上田も北野中(現在の北野高校)卒の秀才で、日本共産党大阪府委員会の農村対策部長をつとめ「人民新聞」という新左翼系新聞発行の中心人物です。

日本共産党は1951年にマルクス主義に基づく革命闘争「51年テーゼ」を協議会にて決議、暴力による革命を公然と掲げ各地で武力闘争を繰り広げていました。これは49年に中華人民共和国が闘争によって成立した影響が大きく、コミンフォルム(コミンテルン)は暴力による世界同時革命を目指し「吹田事件」もこの思想に基づいた反米活動のひとつでした。ところが日本共産党は1955年の六全協(日本共産党 第6回全国協議会)にてコミンフォルムの意向に反して非武装路線に方針を転換、これに対して上田は日本共産党の主流派を「修正主義」と非難し除名され、過激派「日本共産党(解放戦線)」の中心メンバーとなります。

 

上田は新聞発行に関わりながら茨木市のヤシマ乳業という牛乳メーカーに勤務していましたが1964年に同社が廃業、失業した上田は大胆にも襲撃した笹川宅の隣町の箕面市今宮にて牛乳販売の事業を始め、自転車で牛乳を配達して生計を立ててました。今宮は青酸菓子が発見された「ダイエー箕面店」「大丸ピーコック千里中央店」にも路線バスでアクセスが容易な場所で、ヤシマ乳業の設備をグリコ傘下の企業が買収したつながりから公安当局は上田を何度も捜査をしました。牛乳事業以外にも上田は様々な事業に関わり、74年から大阪府の北端の能勢町にて左翼学生を集め、自給自足を目指して養鶏や有機野菜栽培などの指導者として共同農場を始めます。

 

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能勢町は人口1万人ほどの山林や田畑の多い地区ですが、能勢電鉄や国道173号線が整備されていています。傾斜が強いため、ママチャリやスポーツ自転車初心者には厳しいですが、猪名川の上流の渓谷や一庫のダムのダム湖は風光明媚で、一時期は島田紳助さんが郷土の魅力に取りつかれてたほどです。能勢農場は険しい山を抜けた北側の京都との県境付近にあるようです。

 

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農場の設立目的は「人間解放をめざす人が多く生まれ、育つこと」と「農場憲章」に掲げられ、政治にも積極的に関わり、選挙になれば内部から候補者を出し、それができない場合は思想の近似する候補者の支援をする組織で、81年からは北大阪を中心に活動している消費者団体「関西よつば連絡会」と密接に活動をしていました。現在「よつば」は4万世帯の会員を支える大所帯で、衆議院議員の辻元清美氏や箕面市議の藤沢純一氏などを積極的に応援するなど、組織的に支援をしていました。藤沢は「よつば」と共に消費者運動を行っていた経歴を持ち、農場への体験ツアーも行っていました。そして、2004年にはグループの全面的支援を受けて箕面市長に当選、しかし、藤沢は一連の活動を「ひとことで言って、古い!」と批判、自然派食品を販売していながらインスタント食品に頼る活動員の生活を改めなければ前進は望めないとしています。

 

 

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農場に実際に行ってみると一帯が山に囲まれた田園地帯のため、どこからが「能勢農場」の敷地なのかはっきりとしませんでしたが、10台ほどの自動車と2台のライトバンが止まっている場所があり、横道を入るとかわいい牛が牛舎から顔をだしていました。牛を見ていると40歳前後の農作業着の男性が「こんにちわー」と笑顔で通り過ぎていました。上田は心臓発作と脳卒中を患い車いす生活で生きていれば94歳、男性が上田ではないことは確実ですが、通りすがりに「あなたは過激派なのですか?」といった不躾な質問もできる訳もなく、会釈だけすると男性は足早に建物内に入っていきました。

農場は憲章にて「来るものはこばまず、たてこもらず開かれた農場を目指す」を掲げ、子供動物園やテレビ取材受けるなどしていて、過激派特有の物々しさは別段ありませんでした。

 

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脇田憲一著「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」(2004,明石書店)にて、上田は、笹川宅襲撃の首魁であることを認める供述をしている一方でグリコ事件は容疑を完全に否定、81年にヤシマ乳業の背任容疑で逮捕はされましたがそれ以外の容疑は訴追されませんでした。

前回の投稿の通り笹川は個人で空軍を組織するほどの有力者です。両者は右と左で思想こそ正反対ですが、命を張って自身の信念を貫く姿勢は共通するものがあるのかもしれません。上田の思想を受け継ぎ、この施設から窮地の日本を救う人材が出てくるのでしょうか。

舞い上がれ!東大阪「大阪防空飛行場」跡 散走

今からちょうど120年前、米インディアナ州東部出身のウィルバー・ライトはオハイオ州デイトンで自転車店「ライト自転車商会」を経営していました。この頃、ミシュラン兄弟によって空気入りタイヤが普及が進み、米国でも自転車が急速に広がっていました。ウィルバーの自転車店も評判で、売上金を元手に弟のオーヴィルと飛行機「ライトフライヤー号」の作成に挑戦、1903年に世界で初めての動力飛行に成功しました。飛行距離36m、見物人は5人と注目されていませんでしたが、大空への夢を乗せたこの12秒は人類にとって大きな一歩でした。

今期、NHKで放送中の朝ドラ「舞い上がれ!」は、大空を舞う夢をみるヒロインを福原遥さんが演じ「育成成功」と話題を集めています。舞台は町工場が集中する平成期の東大阪、幼少期から飛行機に憧れ、夢を実現するために懸命に生きる姿が描かれています。

 

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東大阪は大阪平野の東部にある政令市で、技術力の高い中小企業が多く集まり人工衛星「まいど1号」の開発でも知られています。自転車関連企業もベビーシートのOGK技研などがあり、大阪市からも近いことから物流拠点としても活用され、トラックの通行量が多い地区になっています。

 

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自転車ベビーシート全国首位の「OGK技研」(東大阪市高井田)

 

福原さん演じる舞ちゃんの家はネジ工場という設定で、髙橋克己さんが社長として舞の父を演じています。東大阪にはラグビーの聖地「花園ラグビー場」があり、毎年高校ラグビーが開催され、2019年にはラグビーのW杯の大会にも使用されました。舞の父は元ラガーマンという設定で、高校時代にラグビー部だった高橋さんのはまり役となっています。

 

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戦後より、この地区で働く工場労働者のために提供された濃い醤油味の中華そばは「高井田系らーめん」として全国的に知られ、点在する麺屋に多くのラーメンファンが訪れています。チェーン店と異なり、店は狭くトイレもない店がほとんどですがリーズナブルな価格と受け継がれている癖になる太麺は地元民にも愛され、私がこの日入った「中華そば 住吉」も常連で満席でした。

 

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舞ちゃんは航空工学を専攻すため「浪速大学」に入学、人力飛行機のサークル「なにわバードマン」に入り琵琶湖での記録飛行を目指しパイロットに志願、12万8000円の中古ロードバイクを値切って購入しトレーニングに励むようになります。役作りのために福原さんはロードバイクの乗車レッスンを受けて、ロケは実際に東大阪市内の自転車屋と公園で収録されたようです。浪速大は架空の大学で大阪公立大がモデルとなっています。大阪公立大は市大と府大が統合されて本年に開設された大学で、現在森ノ宮に新キャンパスを建設中です。新キャンパスから高井田までは5kmほどで、ロードバイクなら30分もかからない距離となります。新キャンパス予定地には、かつて「城東練兵場」があり戦前に飛行場として使用されていました。

 

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森ノ宮に建設中の大阪公立大の新キャンパス 2022年11月撮影

 

城東練兵場は狭小で周囲に障害物多く夜間飛行ができず、航空産業の発展や大阪の防空のためにより大きな専用施設が必要とされました。そこで1933年に東大阪に計画されたのが「大阪防空飛行場」です。大阪防空飛行場は広大な施設でしたが、終戦後に敷地が払下げられ残念ながら当時の面影はほとんど残っていません。このことはおそらく朝ドラで語られることもないでしょうが、現在の東大阪に町工場や倉庫業が集中しているのもこの飛行場が大きく関係しています。

 

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水田の真ん中に開港した「大阪防空飛行場」 伊藤隆編「国防と航空」(2010,中央公論新社)

 

この頃、アメリカではチャールズ・リンドバーグが大西洋横断飛行に成功するなど名声を獲得、31年には航路の調査のため来日し航空技術が目覚しく発展した時代でした。アメリカに追いつくべく国粋大衆党の党首・笹川良一は京阪神の防空のため私費を投じて「国粋義勇飛行隊」を設置、21名の飛行士を養成し中河内郡盾津村(現在の東大阪市新庄周辺)の水田の真ん中に同飛行隊の専用飛行場の建設を計画しました。施設は完成後に笹川の意思により陸軍に寄贈され終戦まで運用されました。

笹川も舞ちゃん同様に幼少期より飛行士を目指し、小学校を卒業すると軍隊に入隊します。ライト兄弟の快挙からまだ10年ほどしか経っておらず、一般には飛行士は冒険家のような扱いをされていた時代です。しかし、笹川の家系は裕福な庄屋で、良一少年は父に飛行機1機を手配をうけて、入隊時には操縦術を習得していたようです。

笹川はその後右腕を負傷し政治家に転身、第二次世界大戦が勃発し「バスに乗り遅れるな」とほとんどの議員が「大政翼賛会」に合流する状況下で行われた翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)にて当選、笹川は株式相場で財産を蓄えて北浜に事務所を構えて東條内閣に反対姿勢の大衆政党「国粋大衆党」にて出馬していました。

 

hikoutai

 

笹川の活動は大阪にとどまらず、自らが戦火の最前線に飛び立ち、日中戦争最中の関東軍やスパイの川島芳子を慰問、満州国皇帝の溥儀や中国南京政府の汪兆銘と面会するなどしました。前回の投稿の通り、日本は満州の利権をめぐって世界から孤立していて抜き差しならない状況でした。笹川はムッソリーニに協力を仰ぐためイタリアに飛び会談、翌年には「日独伊三国同盟」が締結され英米からの侵攻を回避しました。

 

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ムッソリーニと会談に向かう笹川良一(中央の袴の男性) 

 

飛行場では資材不足の戦争末期には松下航空機が木製飛行機を試作、松下航空機は松下幸之助の義弟の井植年男が代表を務める企業で飛行場のそばに工場を新設し、戦後は三洋電機として家電メーカーに転業、昭和を代表する大企業へと成長します。

 

「300万台重要は、ざらにない」

 

松下幸之助も井植と同様に戦争が終わると家電生産に復帰、1951年には自転車の大きな需要を見込み製造を開始し米国輸出やタイヤ工場の建設など業界をけん引します。50年代の長者番付上位は井植と幸之助、そしてブリヂストンの石橋正次郎と自転車産業は花形産業となり、自転車企業の集中する大阪は戦後の焼野原から見事に復活をとげます。1970年に開催された「日本万国博覧会」はまさに大阪の絶頂を象徴し、三洋館「人間洗濯機」や競輪助成金によって敷設された「動く歩道」は世界を驚かせました。

 

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大阪万博に使用されたサンヨーの電動自転車 「EXPO’70パビリオン」 所蔵

 

以前にも紹介しましたが笹川と幸之助は同じ宗教を信仰し、共に社会貢献活動に熱心に取り組みました。笹川は「競艇のドン」として知られ、最近では「国際勝共連合の~」といった文脈で語られ悪名を着せられていますが、同氏の功績はその時代背景とあわせて考えなければならないように思います。

 

 

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戦争が終わると飛行場の敷地は払い下げられ現在のトラックが行き交う工場地帯となりました。盾津中学校の北側にはひっそりと慰霊碑があり、この飛行場で訓練を受けて沖縄の海で敵艦目掛け戦死した学生を追悼しています。自転車に跨り慰霊碑を眺めていると、教員の方が校内に入れて下さり銘板を見ることができました。銘板には笹川の名はなく「民間からの寄付」と説明されていました。

笹川の誰もが驚く破天荒なストーリーはおそらく「舞い上がれ!」にはないと思いますが、前回の朝ドラの失速から「#ちむどんどん反省会」とSNS上で話題になった「二の舞」だけにはならないように見届けたいと思います。

 

安威川に咲いた「尊農・二反長音蔵」の白い花

大阪平野を東西に流れる神崎川は大阪市北端の境界で、中流で北から流れる安威川(あいがわ)と合流し大阪湾に注ぎます。安威川は茨木・摂津・吹田市など三島郡を流れる一級河川で河川敷が整備され、自転車が走行できるようになっています。秋も深まり自転車に乗るのに気持ちいいシーズンとなりましたので、大阪平野の最北端の茨木市まで、安威川沿いをサイクリングしてきました。

 

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茨木市は「伊豆の踊子」「雪国」で知られているノーベル賞作家の川端康成が幼少期に過ごした郷です。川端は成績優秀で茨木中学(現・茨木高等学校)に首席で入学、作家を志望するようになります。茨木中は府下でも屈指の名門校で、地元農家の二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)も川端の影響を受け入学、二反長半(にたんちょう なかば)のペンネームで文筆活動をしていました。二反長半は児童文学や伝記などを数多く執筆「自転車と犬」(鶴書房,1941)、「松下幸之助」(盛光社,1964)、「若き池田大作」(集英社,1971)といった作品を残しています。二反長家は村をまとめる篤農家でしたが、半は法政大学に進学後に教員となり作家活動をしていたそうです。父の後を継がなかった理由としては川端の影響もありますが、それ以上に二反長家が栽培していた植物の品種に関連しています。

 

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半の父・二反長音蔵は1875(明治8)年三島郡福井村生まれ、旧姓は川端。
20歳頃からケシの栽培に興味を持ち船場の道修町で種子を買い込み、独自で品種改良や栽培方法を研究します。ケシはアヘン・モルヒネ・ヘロインの原料で当時でも国内では中毒などの薬害が十分に認識されていて、政府の厳重な管理のもとで栽培されていました。音蔵は薬用アヘンの国内での自給自足を目指し、台湾産ケシから「福井種」、中東産から「三島種」といった優良種を開発、台湾総督府の後藤新平にも高く評価され日本政府から信頼を受けていました。

 

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江戸時代に日本は200年以上も鎖国政策をとっていましたが、その間世界では交易が盛んになり、コーヒー・紅茶・タバコなど高付加価値で依存性の高い嗜好品の貿易が増えていきました。なかでもアヘンは東アジアで嗜好され諸国に広がりました。1895年日本は日清戦争の勝利により下関条約で清国から台湾の割譲を受けます。台湾原住民はアヘンを嗜好し、蔓延の対策に指名されたのが医師の後藤新平でした。後藤は原住民との衝突を避け円滑に統治できるようにアヘンを禁止するのではなく漸減策とります。アヘンを日本の管理下に置き台湾国内での栽培を禁止、星製薬の星一(作家の星新一の父)の力を借り専売制を実施、毒をもって毒を制する手段を取ります。

 

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一面に広がるケシ畑の光景  向かって一番右が二反長音蔵   「戦争と日本阿片史」より

 

国家的な政策により音蔵のケシ畑の耕地面積は増え福井村を中心に500アール、18000人の搾取人を要し、春になると安威川沿いには一面のケシの花が咲き、最盛期には和歌山県有田郡にも作付けされ、国内の98%を供給したそうです。音蔵はケシ栽培に情熱を掛ける一方で自転車で「テクッ」ることを好み、船場や和歌山の耕作地まで汽車を使わず英国製「ラーヂ号」を使って移動してたようです。

 

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「ラーヂ号」を販売する茨木市内の自転車店 (1934年頃) 在郷町古きまちなみ写真展より

 

時は流れ1905年、日露戦争でロシアに勝利した日本はポーツマス条約により南満州鉄道の運営に着手、鉄道の警備員「関東軍」を配備します。歴史はこの鉄道を舞台に諜報戦となり、31年に日本は清朝最後の皇帝・溥儀を担ぎ中国北東部に満州国の建国を宣言します。五族協和を掲げ建国された満州国でしたが実態は日本の傀儡国家で、各国の諜報員が暗躍するスパイ天国となっていました。アヘンは戦略的物資として特務機関「里見機関」よって地下組織に密売され、中国と軍事衝突していた関東軍の秘密資金とされました。

満州国内では急速にアヘンの需要が増加、吉林で900軒、チチハルで500軒と各地でアヘン窟が公然と営業されました。なかでもハルビンは魔窟「大観園」をはじめ3000軒以上の吸引所があり、過酷な労働に従事する人を蝕んでいました。

アヘンは国際条約で禁止されているため日本が国家主導で直接売買はできませんので、政府はあくまで「民間企業」が法の目をくぐり狡猾に密売を行っているという建前で、実態は関東軍主導の極秘任務で音蔵はその片棒を担いでいました。

 

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もちろん、このような事実は当時の日本人は知るすべもなく長く秘匿されていました。しかし1998年10月、愛知県立大学倉橋正直教授が音蔵の遺品である門外不出の箱の調査を二反長家に依頼、死後一度もあけられた形跡のない箱内の資料により音蔵の特務が明らかにされました。

音蔵は馬にまたがり50名の満州国軍の護衛兵を率いて吉林省の山岳地帯の奥地に出向きケシの栽培を指導、満州国から招かれたこのときの自らの様子を「阿片王一行」と記しています。音蔵は67歳にして伊勢から自宅まで自転車に跨り1日で走破する健脚ぶりだったそうですが、初めて乗った馬のサドルは音蔵には合わず移動中は尻の痛みに悩まされたようです。ケシ栽培は実地指導だけでなく、作付け品種の選定から技術面の指導など非常に計画的に行われ、朝鮮・蒙古を含み合計で少なくとも37回の外地旅行に出かけたとしています。

 

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満州国の阿片精製の実景 二反長半著「戦争と日本阿片史」(すばる書房,1977)より 

 

しかし、関東軍のこのような偽装工作は米国スパイによって徹底的に監視され、軍拡を警戒した米国は国際連盟の諮問機関の委員会にて日本を糾弾、満州の独立を認めず中国からの撤退を勧告します。英米は蒋介石率いる中国国民党を支援、中国侵攻から大東亜共栄圏の確立を目指す日本に原油の輸出禁止措置など経済的に制裁を下します。引くに引けない日本は国連脱退を表明、英米との全面戦争へと発展していきます。

 

 

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日本国内ではアヘンが蔓延した歴史はありませんが東アジアでは通貨のように使用され、法律で禁止しても断つことは難しく、扱いを間違うと人だけでなく国家そのものをダメにしてしまうこともあります。音蔵はアヘンの吸引や密売に手を染めることはありませんでしたが、研究や旅費に多額の財産を費やし所有していた山林や田畑など財産を次々と手放し、晩年は「尊農」を自称し宗教にのめり込みました。

現在、福井ではケシ畑のあった形跡は消え去り、二反長家の隣にあるJAの職員や近所の老人たちに聞いても、そんな話は初耳だと言っていました。100年前、音蔵が「テクッ」た安威川の河川敷の轍、伊勢から150kmを走り帰宅した際も音蔵は「少しも疲れなかった」と言っていたそうです。

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