2021年6月大阪市西成区、高台の縁に建つ住宅が崖下へ崩落するニュースが注目を集めました。一軒の住宅が今にも崩れそうなギリギリの状態で斜面に残されて、一歩誤れば大惨事になりかねない現場には規制線が張られ、日常に潜む予期せぬ危険を考えさせられました。

現場は大阪市内中心部南北に貫く「上町台地」の西側の縁で、断層の影響で10m近い高低差があり、将来的に大きな地震を引き起こす危険性が指摘されています。

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大阪の中心部はわりかし平坦な地形で、この台地の高低差が唯一の急こう配となっていて、生活圏にこの坂が含まれるかによって、自転車選びに影響を及ぼします。それだけでなく、都市の発展にも少なからず影響を与え、台地の上と下では、全く違ったライフスタイルになったりします。

崩落事故の現場も阿倍野区と西成区の境界線で、崖上の阿倍野区は大きな施設や高級住宅が広がる一方で、崖下のに西成区は庭のない木造長屋など老朽化した住宅が残されて、自転車でなければ通れない路地が多く残され再整備が進んでいません。

前回投稿の「てんしば」と「天王寺動物園」もまさにこの崖の上と下であり、なにかこの物理的な高低差がメタファーのようになってしまっているようにも思えます。

 

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大阪には長い歴史があり、古くから「オオサカ」と呼ばれています。由来は諸説あるようですが、まさにこの高低差の北端にある「法円」が起源であるとする説が有力視されています。実際、この地に行くと、かつての日本の首都であった「難波宮」が公園としてそれらしく整備され、北側には大坂城を望み、歴史博物館が建てられています。

 

– 難波宮

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645年、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺。昔の教科書ではこの事件を「大化の改新」としていましたが、最近ではこれを「乙巳の変」と教え、その後の難波宮遷都を含めた政変を「大化の改新」としているようです。

この際、国号を「日本」と正式に定め、元号「大化」を初めて制定したそうなので、大坂の出発点どころか、「日本」の歴史の起点となります。

地質学的には、上町断層は断層帯を形成していて、北は豊中から存在しているようなのですが、サイクリングは、歴史の起点であり、高低差が顕著にみられるこの地から南下してみたいと思います。

 

-四天王寺 

 

大阪の歴史は見事にこの高低差に沿って繰り広げられます。

京都や奈良に比べ大阪には歴史がないなどと、大勘違いをしている人が稀にいますが、この断層を数分走っただけで、その濃密さに驚くことだろうと思います。学生の方は教科書を片手に、ペダルを回すと日本史が身近に感じると思います。

 

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難波宮から自転車で10分ほど南下すると、聖徳太子(厩戸皇子)が建立した仏教寺院「四天王寺」に着きます。

四天王寺は、建立の際に「四天王寺七宮」といわれる七つの神社が造営され、現在では歴史観光として風情ある「天王寺七坂」が整備されています。

一帯は「夕陽丘」という新興住宅地のような地名ですが、平安時代の和歌に詠まれているほど歴史があり、坂の下は海で、文字通り夕陽がきれいに見えていたそうです。太子が日没する処の天子という書簡を中国の皇帝に送り激怒されたそうですが、もしかすると四天王寺から見た美しい夕焼けのイメージがあったのかもしれませんね。

 

– 茶臼山

 

七坂の最南に位置する坂の逢坂(おうさか)の南側には茶臼山という低山があります。

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アニメ「じゃりン子チエ」のエンディング曲のちゃうすやーまードンコ釣り~のあの茶臼山です。山の南側には池があり、チエが離れて暮らす母親と手漕ぎボートに乗っていた池も実在し、通天閣を望むことができます。

茶臼山は自然に形成された山ではなく、古墳であるという説もありますが、よくわかっていません。

1614年、江戸幕府と豊臣家による合戦「大坂冬の陣」にて、大坂城の弱点である南側から攻撃をするため、家康が本陣を構えた古戦場です。この戦いでは、豊臣方大将の真田幸村が大坂城と茶臼山の中間あたりに鉄壁の出城「真田丸」を築き、徳川遠征軍を撃退します。そして翌年の夏、再度出陣した家康に、幸村は家康が拠点としていたこの茶臼山にて幕府軍と対峙しました。しかし、激しい幕府軍の襲撃に幸村は逢坂の下に追いやられ最期を迎えます。幸村の死は豊臣軍の敗北を意味し、それは同時に華々しい大坂を中心とした歴史の終焉を意味していて、以降、政治の中心は完全に江戸に移行し発展を遂げ、その中心が大阪に戻ることはありませんでした。

 

 

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茶臼山とその南側に広がる日本庭園「慶沢園」は大正期には、住友家の敷地となり、現在は崖の縁には豪華な「大阪市立美術館」が鎮座しています。私は、てっきりこの建物が住友家の私邸で「財閥解体」で、接収されたとものと勝手に思い込んでいたのですが、どうやらそうではないようです。美術館は戦前にはすでに開館していて、所蔵の美術品なども市が購入したものが多いそうです。

 

– 飛田遊郭

 

坂を下り、5分ほど南進すると、日本最大の遊郭「飛田新地」となります。

1956年、敗戦から奇跡的な復興を果たした日本は「もはや戦後ではない」と新しい時代の到来を宣言、売春活動を防止する「売春禁止法」が成立し罰則が設けらます。古くから「赤線」といわれた飛田は「飛田料理組合」として料亭に転業し、歴史の風情を受け継いでいます。

 

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阿倍野区と西成区の間には「嘆きの壁」という境界壁が立ちはだかり、崖下には異世界のような空間が広がっています。ちょうど緊急事態宣言が発令されていて、店は営業しておらず、怪文書のような張り紙が全店に貼られていて魑魅魍魎とした魔窟の闇の深さを垣間見たような気分でした。

 

– あべのハルカス

 

飛田は料亭と言ってもここでは実際に料理は出てこないので、上町台地を再び上り、「あべのハルカス」で昼食をとりました。

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「あべのハルカス」は近鉄グループによって2014年に開業、地上60階の日本で最も高いの複合商業施設です。ビル名のハルカスというのは「伊勢物語」の一節に由来し、国内外から多くの観光客が訪れます。ビルの12~14階がレストランフロアになっていて、12階「千里しゃぶちん」では崖下の西側にある通天閣を見下ろしながらしゃぶしゃぶを堪能できます。大阪の牛肉中心の食文化は有名ですが、同店は一人鍋しゃぶしゃぶ発祥の店で、コロナの感染リスクが軽減できるスタイルを昔から提案しています。

山盛り野菜に、美しくサシの入った肉を自家製の2種類のタレでいただきます。ご飯もお代わりでき満腹、これで1600円くらいだったと思います。六本木ヒルズとかで食べたら3000~5000円くらいするんじゃないかなぁ(行ったことないけど)とか思いながら、大満足で眼下に広がる風景をぼんやり見ていると「ラーメン、つくりましょうか?」と店員さんが声をかけてくれます。

ラーメンは無料なんですが、女性なら食べきれない量です。
日本最高峰でも、さすが「くいだおれの街」大阪。

 

 

上町断層の本体は堺市の仁徳天皇陵あたりまで連なり、そこから分岐し岸和田市まで断層帯を形成しているらしいのですが、少し日本史の濃密さが薄れ、崖線からも外れますのでまたの機会としたいと思います。

 

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難波宮からハルカスや飛田新地あたりまでは5kmほどで30分もあれば自転車でポタリングできます。地下鉄や自動車では感じることのできない新鮮さがきっとあると思います。

 

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