太平洋戦争の最中、兵器など軍需重工業に傾斜していた日本の産業体制はポツダム宣言受託後に状況は一転します。GHQの監視下、軍需生産施設は全面停止となり、全く勝手の違う平和産業へと転進させられました。敗戦により鍋や釜など日用品や電気機器は不足、軍需工場は次々に転業、なかには自転車の製造に乗り出す企業も現れました。
畑違いの産業で参入は簡単ではなかったようですが、製造に乗り出した三菱重工・片倉工業・大同製鐵・萱場産業・日本金属産業・中西金属・大和紡績など14工場で、これらの企業は軍事開発での知見を活かし高度な技術で活発な動きを見せ、在来の自転車業界を脅かし「転換メーカー」と呼ばれました。
戦前にあって、全国的シェアを持っていたのは、東京の宮田製作所と大日本自転車、名古屋の岡本製作所でした。大日本自転車は現在のFUJIのルーツになる企業で、岡本は自転車製造を辞めて避妊具メーカーに転業しています。既存メーカーにとっても新興業者の殴り込みは脅威で、生き残りを賭けた自由競争時代の始まりでした。6年にわたった戦争の影響で1000万台あった国内の自転車保有数が半減、そこで日本自転車連盟は戦前に人気だったロードレースを企画しました。
▲東京~大阪間ロードレース「第二回ツーリストトロフィ選手権」
1947年当時はまだ自動車の交通量が少なく、日本の大動脈東海道を使い大阪から東京の600kmを3日間で走破する団体ステージレースが計画され、毎日新聞が主催、文部省・商工省の後援で、英国のレースにちなみ「ツーリスト・トロフィー選手権大会」とされました。第1回大会は大会は15チームが参加、大会は転換メーカーと既存の自転車業界の代理戦争となり、互いのプライドを賭けた真剣勝負が繰り広げられました。
レースをきっかけに一気に知名度を広げたい転換組、優勝候補筆頭の三菱重工は宮崎アニメ「風立ちぬ」にも登場する航空爆撃機の設計の本庄季郎が担当、航空機設計理論に基づき徹底的に強度計算を実施しこれまでの鉄製ダイヤモンド形状フレームの常識を覆したジュラルミン(アルミ合金)リベット接合のクロスフレーム自転車「三菱十字号」(英名:DUJEE)をレースに投入しました。
▲戦闘機の航空技術者が監修した三菱重工「三菱十字号」 シマノ自転車博物館所蔵
同じく転業組の萱場工業は、法政大を卒業したばかりのスプリンターの加藤一と契約、優勝を目指しました。加藤は法大在学中に東京美術学校(現在の東京藝大)に合格し数ヶ月間油絵を学ぶと法大に復学する文武に優れた秀才で、レース参加の後は競輪選手として活躍を見せるも颯爽と渡仏、画家とサイクリストの2足の草鞋で自転車雑誌に本場フランスの豊かな自転車文化を伝道しました。そして、日本代表の監督を務め、フランスのUCI(世界自転車競技連合)本部に掛け合いKEIRINの五輪種目入りの交渉人となった人物です。
加藤を擁する萱場チームは断トツの強さを見せ、1日目の大阪~名古屋間を制しましたが、勤続期間が規定に達していないと他のチームからクレームが入り、審判長の裁定で後着させられ、最終的には宮田チームが公式に優勝となりました。
㊧日本代表監督も務めた画家の加藤一 (42歳の頃の肖像写真)
㊨線画入りの仏ロードレースのレポート「ニューサイクリング」1967年9月号
翌年の第2回大会は今度は東京がスタート地点となり大阪を目指して15チームが参戦、ロードレースといっても東海道の70%が未舗装道、そこを時速60キロの猛スピードで走る自転車に沿道からは大きな声援がよせられ、第二回大会も既存メーカーの大日本チームが勝利しました。タイムは22時間7分21秒、二位の中西金属とは1秒差でしたが、ロードレースではこのたった1秒が勝者と敗者を生みます。
大会の表彰式は前回投稿の「復興大博覧会」で行われ閉幕、自転車業界は威信を高めました。同年12月には自転車競技法が成立し、国内では公道レースは下火となり熱狂は競輪場に移っていきました。また1950年には朝鮮戦争が勃発、ほとんどの転換メーカーは軍事産業に再転換し、1980年代に片倉工業が生産を辞めたのを最後に転換メーカーは完全に姿を消しました。もし、この時のレースで転換メーカーが勝利していたら、国内の自転車産業地図は今とは違った構図になっていたかもしれません。