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珍百景、琵琶湖に浮かぶ三輪自転車の島「沖島」

少し古いデータで恐縮なのですが、2018年滋賀県は自転車産業振興会の調査で1世帯あたりの自転車保有台数で大阪府を抑えて全国トップ、官民連携で交通安全など自転車振興に取り組み、琵琶湖の湖畔を周遊する「ビワイチ」は、政府が後押しする地域活性化策「サイクルツーリズム」の成功事例の筆頭で、自転車は観光のみならずレジャーや移動手段として定着、環境問題というメガトレンドに沿った計画が住みやすさとつながり、神戸・京都が人口減に苦しむ一方で、滋賀県は人口を堅持しているという投稿を8月にしました。

今回はまた滋賀県、沖島に行ってきました。

 

 

沖島(おきしま)は琵琶湖に浮かぶ有人島で人口約250人、1時間もあれば一周できるほどの小島で琵琶湖東岸の近江八幡市の堀切新港と沖島を連絡する航路があります。堀切新港からは所要時間は5分ほどですが、1~2時間に1本しか運航されていませんので、島に行くには時刻票をみてからでなければなりません。船には数人ほど観光に訪れた人が乗船していて料金は片道500円、普通は往復で購入することとなります。

 

 

島の中央部は山で、港は島の南側にあり、集落か形成されています。木造二階建ての住宅と畑、細い路地という日本の原風景で自動車・鉄道はなく、徒歩での生活となります。集落の路地は基本的に舗装されていて、山裾には階段が整備され墓や神社があります。島の主な産業は水産業で多くの世帯は船を所有、男性は生活のため島外へも行くライフスタイルとなり、一応自動車運転免許はほとんどの人が取得しているようです。

 

 

自動車がないためもちろんガソリンスタンドもなく、島民の移動はもっぱら自転車となります。1時間ほどの調査で島内で237台の大人用自転車が確認され100%近い所有率となっています。そして、特徴的なのはその6割にあたる142台が三輪自転車である点です。

見わたせばそこら中に三輪自転車が無施錠に放置され、サドルの汚れを防止するためかおかきの缶カンが被せられています。

 

 

島の北側のカフェの店主の方に話を聞くと、かつては漁業で水揚げされた魚介類を運搬するために利用された三輪自転車が島民の高齢化に従って増加していったと言っていました。

 

「クルマがないからみんな自転車、のんびりした島でしょう」

 

店主は中年男性で金儲けというより島の良さを知ってもらうため、Uターンで訪問者向けのカフェを開業したそうです。島には病院もコンビニもありませんが、小学校があり島外から通学する子供がいて寂しい感じはしません。

 

 

 

船着き場付近には三輪自転車のレンタサイクルもあり、修理もそこでしているそうです。少し前までこの島は猫が多住する猫の島として注目されたようですが、この日に見た猫はたった2匹でした。三輪自転車を活用したライフスタイルは独特で、何かをきっかけ大きな注目を集め、評価されてもいいのではないかと感じました。

 

 

インバウンドで観光客でごった返している京都や大阪にうんざりしている方は一度訪れてみてはどうでしょうか。

アパッチの叫び「大阪府金属くず営業条例」反対自転車デモ

大阪は戦前より在日朝鮮人が多住し、特に大阪市東部の生野区・東成区の猪飼野(いかいの)と呼ばれる地域は現在でもコリアンタウンや朝鮮学校など独自のコミュニティが形成されています。戦後間もない頃は激しく職業差別を受け、在日朝鮮人はほぼ定職にありつけず75%が無職、多くは日雇いや古鉄収集で何とかその日を生き、ヒロポンやドブロクの密造・空き巣や洋犬盗といった社会秩序とは無縁のハードボイルドな生活を送っていました。朝鮮戦争が始まると金属くずの買取価格が暴騰、在日朝鮮人の10人に1人が古物屑鉄商となり、大阪では朝鮮人の古鉄窃盗団が暗躍しました。

 


リアカーで古鉄を回収する久保木修己  写真:「愛天愛国愛人」より

 

鉄道各社・鉄鋼業界や婦人会等から金属盗に関する陳情が相次ぎ、府は対応に追われました。金属盗の88%がよせ屋と呼ばれるこれらの鉄拾い業者を経由することから、1956年12月の府会の定例会にて、身分証明の提示やよせ屋の届出制度など買い取りを厳格化した「大阪府金属屑営業条例案」が提出され、議会にて質疑応答や懇談会が進められました。

 

「金属くず営業条例案は、盗品の金属類が金属くずとして売買されないため、よせ屋・ひろい屋について必要な規制をおこなう」(赤間文三 大阪府知事)

 

12月の定例会にて継続審査された条例案は賛否両意見が飛び交い混乱もありましたが、翌年の57年2月28日に賛成多数で、無修正で可決されました。

 


▲大阪府金属屑営業条例案提出で混乱する府庁「廃墟の中から」中西清太郎(1988,羊書房)

 

リアカーひとつで商売ができる鉄くず回収は在日朝鮮・韓国人にとって、極めて低資本で確実に現金が手にできる数少ない継続できる職種で、条例の制定は生活に困窮する朝鮮人の反感を買い、条例案が提出されたの56年12月18日、大阪府庁にて大規模なデモが実施されました。

前日の17日に再生資源取扱業者約500名によって府庁まで自転車デモが敢行され各党議員に陳情、翌18日朝11時過ぎには観光バス3台など業者など含む約1000名が「金属条例反対」のプラカードやのぼりを掲げ「我々を泥棒扱いする条例をブッつぶせ!」と叫び、隊を組んで議事堂の扉を押し破り気勢を上げました。

 


大阪府庁に押し寄せる在日朝鮮人 「日本鉄スクラップ業者現代史」(冨高幸雄,2017)

 

記帳が義務化されている条例の制定には字が書けない朝鮮人にとっては死活問題であり、死ぬしかないと声を上げたとされています。デモでは藁人形を掲げるなど大騒ぎとなり、府警は暴力行為・器物破損の疑いで関係者から事情を聞くなどして申し合わせました。

しかしながら条例成立後も古鉄盗は収まらず、58年10月には城東区の軍事施設「大阪砲兵工廠」から鉄くずを盗む朝鮮人窃盗団「アパッチ族」が新聞沙汰となり問題視され、府警は自転車盗の一掃作戦のため重点警戒網を敷き、組織犯罪の対策を取ります。ルポライターで、在日朝鮮人の黄民基(ファン・ミンキ)氏は「一人の自転車ドロの専門家を捕まえてみると、ついこないだまでは空き巣の名人と謳われた男であったという事実も実際にあった」として、古鉄盗は時代の表現者であるとしています。

 


府庁を取り囲んだデモ隊 「矢田戦後部落解放史1」(部落解放同盟矢田支部編,1980年)より

 

本ブログでは、現在の大阪におけるローカル中古自転車チェーン店につながる在日朝鮮人による静脈産業について、これまで批判的な立場で実態の調査・考察してきました。

古書店の「ブックオフ」が講談社や集英社など出版業界と接点がないのと同様に、大阪の中古自転車店も一般的な国内の自転車産業とかかわりが薄く、シマノやジャイアント、ブリヂストンサイクルなどの企業と共存関係になく異質な閉鎖市場を形成しています。

メディアが取り上げられることはほとんどありませんが、外国人経営の中古自転車チェーン店は様々な問題を抱えておりその実態はベールに包まれています。特に私は大阪市がこの負のスパイラルに加担していることが最大の問題であると考えています。

 

 


日本から北朝鮮に輸出される中古自転車 [京都・舞鶴港] 読売新聞 2003年6月14日

 

1967年4月には、1000台以上の自転車を盗んだとされる「自転車ドロ名人」高 基雲(コ キウン)が逮捕され、西成周辺の中古自転車店から次々と高の盗んだ自転車が押収、当時の金額で1000万円相当、東署は押収車で自転車預かり所のようになり、盗品売買の闇ルートの一端が公然となりました。

 


高基雲逮捕で明るみになった闇ルート  大阪日日新聞1967年4月10日

 

大阪府庁ではこのデモの9年前の1948年にも在日朝鮮人による大規模暴動事件「大阪朝鮮人騒擾事件」が発生、在日朝鮮人が府庁を占拠し、政府が非常事態宣言を発令する事態となり、府警の警邏体制が抜本的な改革がされました。同事件は暴力によって政府が方針を転換するという悪しき前例で、断固としてこのようなことは許されません。

戦後、緊急事態宣言が発令のはコロナ・福島第一原発事故・国鉄危機と同事件の4例のみですが、なぜか誰も事件を顧みることなく風化してしまっていて、在日3世4世は初耳の人も多いのではないでしょうか。しかしながら、このような系譜は途絶えた訳ではなく現在も脈々と大阪の地下に根を張り独自のコミュニティを形成しています。

大阪は全国で最も自転車盗が多い都道府県となっていて、私はこの問題を軽視しておらず、多くの人に事実を知っていただき、行政がさらなる対応をすることを望んでいます。

グラングリーン大阪の駐輪場問題

梅田北ヤード跡にできた都市公園「グラングリーン大阪」が一部開業したようなのでに行ってきました。

関西最後の一等地とされ再開発が進められているうめきた、大型複合施設「グランフロント」に次いで西側に広大な芝生公園と商業施設・ホテル・オフィスビルなどが段階的に開業し、2027年頃までに全体がまちびらきとなる計画となっていて、関西経済の起爆剤として注目を集めています。

 

grand green osaka

 

ご存じの通り梅田は日本屈指の商業エリアで、すでに多くの商業施設が林立し2010年代にはオーバーストアを懸念されていました。阪急・阪神・大丸の老舗百貨店やヨドバシ・ルクア・HEP等の人気テナントに加えて今夏にはJPタワー「KITTE大阪」や大阪ステーションシティ「イノゲート大阪」が誕生し、関西万博をひかえてさらに拡大しています。グラングリーン大阪は植栽や街並みが見事にレイアウトされ、都市の価値を創出がこれまでにない規模で提案され、ごちゃごちゃした大阪のイメージを大きく変える憩いの空間となっています。

 

 

更地だった5年前、この場所で自転車イベント「BIKERORE」が開催、特設の自転車土走路コースやブースが出展され、開放的なアウトドア空間に多くの人が魅了されていました。もともと国鉄の操車場だった広大な敷地が、すべての人を受け入れる都市機能を備えた理想的な空間となっています。

ミナミや京都と比べてインバウンド需要を取り込めていなかった梅田、忽然と姿を現したユートピアで巻き返しとなるのでしょうか。

 


自転車イベント「BIKERORE」会場となったうめきた   2019年3月撮影

 

 

JR北側の開発が盛んな一方で南側の「ブリーゼブリーゼ」「E-ma」などのファッションビルに空きが目立ち、阪急線を挟んだ東側の茶屋町もLOFTが閉店を発表するなど勢いを失っています。再開発はまだ中途で、公園もつくりかけなのでなんともえいませんが、南港「ATC」やJR難波「OCAT」のように予定通りに開発が進まず不採算化した事例もあり、期待通りになるのか注視したいです。

一般的な商業施設はオープンの日が最高潮となり、次第に客数が減っていくものなのですが、官民が連携したパークPFI事業は、樹木の生育などの循環型環境の構築を周辺住民や公園利用者を巻き込み実現していくため、イベント等でいかに利用者をとりこみ、賑わいを創出できるかがキモとなります。

 


うめきた広場で開催された「DOWNTOWN BMX」  2023年8月

 

しかしながら、グラングリーン大阪は園内に駐輪場がなく、10分以上離れた有料の駐輪施設を利用しなければいけません。大阪城公園や天王寺公園(てんしば)には園内に無料の駐輪場があり、ドア・ツー・ドアで公園に直接行くことできますが、うめきた公園にはそのような気軽さがないのです。

中之島公園大泉緑地ののように園内にサイクリングコースをつくれと言っているのでなく、日常生活の延長として公園を利用できるように設計する必要性があるように思います。都市交通を人体に例えるなら、鉄道は大動脈、自転車は毛細血管となります。血栓ができては健全な街となりません。

 

 

実際に大阪で日常的に利用されている自転車はママチャリで、読んで字のごとく子育て女性(ママ用自転車)です。私はこのままでは、うめきた公園は大阪の子育て世代に支持されない公園になるのではないかと危惧しています。人の多い梅田駅から1駅ほどの距離を歩くのも子連れには大変ですし、わざわざ駐輪料金を払うなら「てんしばでええわ」となるのではないでしょうか。大阪市は毎年6万台以上自転車撤去がされるほど駐輪施設が充足していません。駐輪場がないのが設計ミスなのか、これから造るのかは分かりませんが、グラングリーン大阪にはエコロジーで社会課題を解決が期待されています。

NYC「人中心のまちづくり」狂人サディック=カーンのアーバニズム

政府は2030年に温室効果ガスを2013年比で46%削減すうる目標を標榜しています。

 

 

「おぼろげながら浮かんできたんです、46という数字が。シルエットが浮かんできたんです」

 

 

小泉進次郎環境相(当時)は、これまでの削減目標であった26%を大幅に引き上げる方針を表明、菅義偉首相も国際社会に対して脱炭素社会の実現に向けて積極的に取り組む姿勢を示しました。

2016年には環境負担軽減等を基本方針とした「自転車活用推進法」が施行され、国土交通大臣を長に自転車活用推進本部を設置、環境問題という世界的な潮流に前向きに取り組んでいます。大阪府も推進法に基づき「大阪府自転車活用推進計画」を策定、都市環境の形成・サイクルスポーツの振興・サイクルツーリズム促進・自転車事故削減などを目標に関係各局が緊密に連携し計画を促進しています。

 

 

 

 

吉村洋文知事は大阪のメインストリート御堂筋の6車線のうち側道2車線を自転車専用レーンを併設した歩道と緑地帯にする転換する方針を表明、「車中心の道路」から「人中心のにぎわい空間」と変え、地域活性化につなげたいとし、現在は整備中となっています。

 

 

かつて、バス・タクシー乗り場のあった南海難波駅北側も自動車の進入が禁止され、高島屋となんばマルイに挟まれた駅前空間は腰かけや植栽が設置され、くつろげる空間となっています。御堂筋のこのような街路の整備は、アメリカ同時多発テロ直後からニューヨーク市長となったマイケル・ブルームバーグ氏の市政のプロジェクトが参考とされ、2019年にはブルームバーグ市政下における交通局長ジャネット・サディック=カーン女史を道頓堀に招き、大阪市の建設企画部の担当者と取り組みを視察しました。

 

 

「大阪市、神戸市におけるサイクリストの数は、アメリカ、カナダ、あるいはヨーロッパの大多数の都市より多いにも関わらず、自転車インフラがほぼ整備されていません。」

 

 

カーン女史は日本が基本的な自転車レーン網が備われば、自転車人口は容易に倍になるとしています。NYCは2007~13年間だけで、約400マイル(643キロメートル)の自転車レーンを設置、自転車利用者は4倍近くに伸び、事故リスクが75%減少、負傷者も半減したとし、街路に新たな息吹を吹き込んだプロジェクトで、こうした都市の変革が世界中で展開されているとしています。

 

 

 

 

世界の各都市の自転車の交通分担率を調べると、大阪市は25%、ロッテルダム(蘭)20%、ローマ20%、ケルン(独)11%、ヘルシンキ(フィンランド)7%、パリ5%、ロンドン2%と欧州の先進的な自転車都市と比べて劣るどころか、むしろ大阪を上回るのはデンマークのコペンハーゲンくらいで、諸都市とは比較しても極めて高いことが分かります。しかも、大阪は地下鉄網や公共交通機関が充実、街路も自動車が走りやすいように整備されロードプライシングのような交通制限もなく、多様な移動手段の中からわざわざ自転車を選択して使用しているのです。

 

 

 

 

2019年にシンクタンクの調査「世界自転車都市ランキング」では、第1位はコペンハーゲン、パリは8位、東京が16位で、大阪市はランク外となっています。この調査がどれほど信頼できるものなのかは知りませんが、大阪は少なくとも東京より下という考えにくいように思います。本ブログではこれまで大阪の自転車ネタを発信してきましたが、大阪市には政令市には一般的に設置されている自転車政策を推進する部署が存在せず、後退的な姿勢が目立ちます。そのため評価に値しないと考えられているのか、調査に必要なデータを収集していないのか、なんらかの瑕疵があるのではないかと推測されます。

 

 

sankei

 

 

大阪府では2008~12年までの5年間、大阪府警が自転車盗など計8万件以上の事件を少なく装うの偽装工作をしていたことが発覚、2023年には放置自転車を見つけ次第撤去する「リアルタイム撤去」開始、本年5月は同事業の組織ぐるみの不正が発覚し虚偽記載を横山英幸市長が陳謝、賠償を含めたと150万台の調査と再発防止の徹底を明言しました。

 

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【放置自転車数】

大阪市 6万1590台
神戸市 8799台
横浜市 5665台
さいたま市 3261台
広島市  1294台
浜松市 1195台
(令和2年 国土交通省 交通安全対策室資料)

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京都市はオーバーツーリズムによる交通網マヒの緩和策で、2010年から自転車総合政策を開始、自転車推進室を設置し本年には放置自転車が実質ゼロとなり、大阪市を上回っていた自転車事故もピーク年から4分の1に減少しました。交通分担率も23%と高く、成果が数字として表れています。一方で大阪は自転車利用を「マイナス40%運動」をミナミの団体と結託し標榜するなど、小泉進次郎さんがまともに見えるほどおぼろげな施策を展開しています。

 

 

 

カーン女史の活動も最初は理解されず、怒りのメッセージを書き込まれたプラカードや反対派の抗議活動で、自転車レーンの設置をめぐって市民同士が衝突し、狂人扱いされたようです。

 

「Don’t Be Conned by Sadik-khan」
(サディック=カーンに騙されるな)

 

カーン女史は、駐輪場の整備は沿道のビジネスにプラスの影響を与え、店舗を活気づけるとしています。御堂筋の再整備にはあふれかえる何万台という自転車を収容できるようにしっかりと設計されているのでしょうか。大阪市にはこの問題を解決する自転車政策を計画する部署がないのが最大の問題で、「放置自転車する人=悪人」と利用者個人のモラルでどうにかなると考えている点です。大阪人のマナーは度々問題となりますが、大阪には6万人の悪人がいて、京都はゼロというのはおかしな話です。しっかりとした計画を立て、チームを編成し、予算を計上していかなければ再整備後も放置自転車はなくならないのではないでしょうか。

 

 


アメリカの沿道デザイン案 全米都市交通担当者協会著「アーバンストリートデザインガイドブック」(2021,学芸出版社)より

世紀の大敗北、インパールで「銀輪部隊」は餓死者を救えたのか

本年2月に日本軍が先の大戦のマレー半島侵攻にて自転車を活用した銀輪部隊の電撃的機動力で大英帝国に見事に大勝利した対英マレー戦について投稿しました。また、7月には本土決戦に向けての最終兵器として軍用自転車200台が大阪の茨木市安威地下倉庫に備蓄されていたという資料を発掘したという投稿をしました。

では、なぜ対英マレー戦で自転車が兵器と大きな成果を得たにも関わらず、その後の進攻に銀輪部隊を有効活用しなかったのでしょうか。不思議なことに、銀輪部隊の活躍は後にも先にもマレー戦だけなのです。

 

 

日清・日露戦争の時代は日本国内でまだ自転車が高級品で誰でも訓練なしに乗ることができた訳ではなく、マレー戦はちょうど日本が自転車の内製化に成功し大衆に普及した時期にあたります。マレー戦では民生用に量産された実用車を軍隊向けに転用、英米によるABCD包囲網によって石油資源が枯渇状態に陥っている皇軍に打ってつけの工作手段となりました。

 

 

 

続くインパール作戦では銀輪部隊の活躍はみられず多くの餓死者を出し敗北、マレー半島の熱帯ジャングルの長距離進攻でタイヤ・チューブなどゴム関連のダメージが大きく、資源枯渇状態の部隊は修理が追いつきませんでした。インパールで部隊を率いた牟田口廉也司令官は象や牛の収集と訓練は命じたものの、マレー戦の銀輪部隊の活躍を実際に目にしておらず、陸上の兵糧輸送を軽視し、3万人の餓死者が置き去りにされたといいます。

ではインパールの大敗北は仕方がなかったのでしょうか。本年5月に上梓された「自転車で勝てた戦争があった」(兵頭二十八著,並木書房)によると、著者はゴムなし車輪の自転車でも「プッシュ・バイク」として兵糧を載せて手押しすることで餓死を回避できたと主張、実際に80kgの砂袋をタイヤ・チューブを外した改造車で山中を移動するの実験リポートを紹介してます。

 


タイヤのない自転車の実証実験「自転車で勝てた戦争があった」兵頭二十八(並木書房,2024)

 

もちろんこのような「if」でマンハッタン計画を阻止するのは無理だとしていますが、兵糧輸送や患者後送の手段として「押して歩く自転車」を役立てる着想があれば餓死者をゼロにおさえられた可能性があると詳説、徒歩で担いで運べる数倍の荷物を運べる自転車の有用性を説いています。

 

結局、安威地下倉庫に備えられた海軍の自転車は本土決戦に使用されることなく終戦をむかえました。ポツダム宣言受託後に兵器など軍需重工業に傾斜していた日本の産業体制はGHQ監視下で全面停止となり、三菱重工・片倉工業・大同製鐵・萱場産業・日本金属産業・中西金属・大和紡績など14工場が自転車企業に転業、自由競争経済下で軍事開発での知見を活かし高品質の自転車を製造しました。

 

「サイクリングは今 流行のレジャーなんだから」

 

戦後から立ち上がる1950年代を描いた映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では、流行に敏感な中年女性がサイクリングに魅了され、堀北真希さんが自転車技士として町工場で修理をするが場面が登場します。自転車は女性の解放の象徴でもあり、1960年代にはママチャリの始祖となる自転車が開発され、一般家庭にも広く普及し子育てや買い物など日本独自の自転車文化が華開きます。

現在では、自転車が戦争に使用されることはほとんどみられず、大東亜戦争を賞賛することもタブー視されていますがこのような歴史があったことも事実なのです。

シマノ自転車博物館に寄贈された「ジェイ・ラッド」をみてきました

100年以上前にドイツで製造された「ジェイラッド」という自転車が堺市「シマノ自転車博物館」に寄贈されたという情報が6月に朝日新聞のサイトに公開されていたのでどんな自転車なのか見に行ってきました。

 

 

ジェイラッドは独シュトゥットガルトのヘスペルス・ワークス株式会社で製造されたリカンベント型の自転車で、同博物館にすでに1921年(大正10年)製の車両の展示1台があります。国内では極めて珍しく、私の知る限りこの2台のみだと思います。リカンベントというのは上体を後方にやや傾けた姿勢で操舵する自転車で、最近ではGIANTが「REVIVE」(リバイブ)という車種を生産していて、当店でも数台ですが販売歴があります。

 

 


▲GIANT「REVIVE」

 

リカンベントはユニークな形状ですが、空気抵抗を抑えられるため結構スピードがでます。しかしながら、車体が鈍重となり登り坂に向かないためあまり実用的でなく、ドイツでもこのタイプが主流化した歴史はありません。考案したのはツェッペリン飛行船を製造していた会社の技師ポール・ジァレイで、一般的な自転車がペダルを回すチェーン駆動なのに対して、ジァレイの自転車はワイヤーを足踏みで引っ張る構造となっています。

 

 

今回寄贈された車両は一般公開されていませんが、特別に現車を見せていただけることとなりました。「ラッド」とはドイツ語で自転車を意味し、「J」は考案者ジャレイの頭文字で「J・RAD」という車名なのでしょう、下ブリッジに色あせたシンボルマークが確認できます。

 

 

 

前輪が後輪より小径で、シートは背もたれ付きとなっています。展示車と比較すると寄贈車はペダル(足の乗せ)が左右3つと1組多くなっています。展示車は後輪ハブが内装式変速となっていますが、寄贈車は変速ナシなので、足の置き位置で脚への負担を調整するようになっているようです。

 

 

 

そもそも自転車というものは、1817年にドイツ人によって発明されたとされ、高級品として欧州で発展しました。1885年には現在のチェーンドライブ式の後輪駆動の自転車がすでに発明されて1900年以降は広く普及するため、1921年にこのような変形自転車が登場した経緯が分かりません。ドイツは1919年のベルサイユ条約で第一世界大戦の賠償金で、強烈なインフレに苦しんだ時期にあたるので、こんな遊具のような自転車を作っている余裕があったのでしょうか。戦後ドイツの事情はよくわかりませんが、日本も戦後すぐに三菱がけったいなジュラルミン製自転車「十字号」を制作したことを考えると、戦勝国から平和産業への転換を強要されたのかもしれません。

 

 

しかしながら、ワイヤーで自転車が駆動するなんて強度的に大丈夫なのでしょうか。ワイヤー自体もそれほど太くないものが使用されていたので、切れてしまうことも多かったのではないでしょうか。いずれにしても貴重な産業遺産であることは間違いないと思います。

 

 

 

大阪には東京国立博物館やスミソニアン博物館のような総合的な公立博物館ありません。歴史博物館や民俗学博物館はありますが、製造業の盛んな大阪になぜパナソニックミュージアムのような産業遺産を収蔵する公立施設がないのでしょうか。大阪の発明品は自転車関連にとどまらず数多くあり、もっと世界に向けてしっかりアピールした方がいいのではないかと思います。

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